Quantcast
Channel: 水の門
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2177

『まぼろしの椅子』より

$
0
0
大西民子の歌集『まぼろしの椅子』を読了。目に留まった歌を引いておきます。


・カロッサに目は開かれつと」ある後記賜びし詩集に幾日憑かるる
・俄かに胸に火点きし如く夜更かして論拠となさむ章句書き抜く
・抽象的な人間と人に言はれしことまた思ふ夕餉のサラダまぜてゐて
・ながくわれを苛める貌もわが中に噛み砕かれて像を結ばず
・われを伴ひて遁れむと言ふノアもなし裾濡らし雨の舗道を帰る

・神々も渇く夜あらむわがひとり夜更くればまた眠る外なく
・風落ちてまた雨となれる夜半に覚む猜疑より遁るる如く眠りし
・舞曲(シャコンヌ)のレコードかけつつ夕餉なす放恣伴思ふかかる孤独の処理は
・校正刷りの届くを待ちて夜となりぬ手伝はむと言ふ少女と煉炭に寄る
・わが守る偶像を毀(こぼ)つ如く若きらは夫の動静を探りくれたり

・学寮をあばく記事読みゐて渇ける目持てる記者よと妹の言ふ
・亡き母を忘れ得ず家をぬけ出でて罪累ねたる白痴少年
・黄のインコを掌にとまらせて佇つ少女ヴェロニカの像をふとわが思ふ
・「悲愴ソナタ」弾くべき卒業演奏も中止されにきかの空爆下
・われに弾かせては歌ひゐしソプラノ動乱の朝鮮に帰りてゆくへは知れず

・憎むより祈り続け来し日々も虚し頰とがり君の歩みゐしとぞ
・梗概のみを追ふ人の中に胸深く愛の推移を秘めつつ勤む
・心渇くともみづから癒やす外はなし夜半の水道はしぶきをあぐる
・孤独にゐて人を恕すことも易からずまた堰を切りて悲しみは来る
・秘めて来し被虐の過程をあばくごとあてなき手記を夜々綴りゆく

・累ね来し錯誤と思へどその過去に規制されゆく未来と知れり
・手は何にさしのべむ如何に描くとも茫々と寂しわが未来像
・眠れざりしことも忘れむ朝の井戸端に両耳の裏を念入れて拭く
・立ち直りゆきたし君の背離さへ一つのアンチテーゼとなして
・子は鎹(かすがひ)など言ひ合ひて子無きわれの別れ住めるを人のはかなむ

・読みさしの聖書ロマ書の一章を今日来し妹も母も見つらむ
・検察官として苦しみし父か資本主義の矛盾が犯罪を生むことも子には説きにき
・三十年間の捜査記録綴らむ餘生を父は楽しみゐしが俄かに逝きぬ
・うちつけに理解さるるとは思はねどパンセの句引きて返事書き終ふ
・真実は必ず通らむなどと説きて世事にはうとき教師なりしよ

・憎むより愍(あわ)れめば心は休まると悟り来ぬ二十代も過ぎむとしつつ
・空白の時間をかき消すよすがとも指痛めつつもの編み続く
・減らし目を忘れて編みゐし袖を解く夜半の思ひのはずむことなし
・せめて深き眠りを得たし今宵ひとり食べ餘したる林檎が匂ふ
・編輯者なる肩書ゆゑにもてなされしかと思ふ帰りのバスに揺られつつ

・彩りもなきパンフレットを月々に編みつつ何時まで勤め得む身ぞ
・編輯の中立のために捨てねばならぬ論説一つ読み返しゆく
・昼食後を今日も襲はるる懈怠感廊下には既に印刷屋が待つ
・語気荒く誤植を指摘し来し手紙朝より塞ぎゐしわれを衝つ
・酔ひに紛らしてわが編輯のマンネリズムを衝きし一人も帰りゆきたり

・人を庇ひてみづからの立場を狭めゆくわれかと思ふ協議終へ来て
・おのづから守勢に立てる如き一日押し黙り原稿を割り付けてゆく
・頭の皮膚の痛み来れば鬢どめを外しつつ要点速記を続く
・わが知らぬ読者より励まし来し手紙校正を終へたる夕べに読めり
・優柔不断を君も誹レド信じ切れなくなりし過程はわれのみが知る

・女の側を貶しめ易き世の思惑に迷わず身の振りを決めむと思ふ
・人の不和の間隙を縫ひてわが得ゆく平安と思ふ記帳なしゐて
・われのために禁句となりゐる言葉なきや昼の事務所脱けてインコ見にゆく
・他人の恣意の犠牲になり易き地位と思へり残務なしつつ
・校正に通ひ慣れたるこの坂のほとりに今年も山茶花咲けり

・寝る前に焜炉に石油みたしおくならはしよ視野狭く生きつつ
・校正終へて帰り来し夜半目の上に濡らせるガーゼのせて寝むとす
・報いらるるを秘かに期待してゐしか居残りて謄写なしつつ寂し
・刷り上げし書類綴ぢゆく夜の事務所マフラーを拡げて膝覆ひつつ
・傀儡の如き立場を歎く友も教職には帰りたくなしと言ひたり

・背景がもの言ふ世界と思ひつつたまりし官報を一人綴ぢをり
・強ひられし謝罪の手紙書くを見て嫁がせしことを母はまた歎く
・われの重荷となるを怖るる母と知る薬草も摘みためて居給ふ
・転職の時機かとも思ふ頬杖点きて食卓に独り残り居りつつ
・ヘッセ読みつつ何時か眠りにおちてゆく明日を信ずる如き姿勢に

・少しづつよくなる社会を信じたしとアンケートの葉書刷りつつ思ふ
・啓示の如きものを求めて訪ひ来しかわが前にはやさしぐむ少女
・かりそめの甘き言葉にもくづほれむ態勢にある汝と思へり
・学卒へなば無医村に勤めむと言ふ汝のひたむきにして抗ひがたし
・徒食する階級を憎むと言ひし汝よ傘さしかけて帰してやりぬ

・被害妄想と片附けられて立ちて来つ夫にもわれは理解されざる
・新聞配達の少年に声をかけおきてひとときをまたわが眠るなり
・風化して傾きゐずや年を経しかの草かげの吾子が墓標よ
・子のなきを蔑まれ時に羨まれ静かに日々の過ぐるものかも
・妥協のみ繰返しゆくわが日々よ思へば今日もよく笑ひたり

・焦点を故意に外して言ひ合へば夫も他人の一人のごとし
・ながき未来に計りて去就定めよと言はれ死ことも身に沁むるなり
・よるべなきこころのままに出づる旅よ小型聖書も鞄に入れつ
・足悪き友が必死に掘りてゆく経蔵に午后の陽ざし及べり
・真実はとほらぬ筈なしと主張する妹の若さを時に危ぶむ

・告白されし愛に悩むことも未だなき汝か言葉短かく語りたるのみ
・独り身も三十すぎし友がふと呪詛ともひびく言葉を洩らす
・恋さへも虚しとありし遺書の言葉友失ひて幾年つねに思ひき
・毒をのみて逝けるかの友の占めし位置隙間となりて今も残れる
・燃え尽きしいのちとも思ふ夭死せし友のノートの歌写しつつ

・鹿の鳴く秋は寂しく遺書めける手記をしきりに書きてゐたりき
・病室のルオーの額もよごれゐて友は気弱くまた来よと言ふ

Viewing all articles
Browse latest Browse all 2177

Trending Articles