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Channel: 水の門
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後でだぶる羽目に…

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通販の 同じマットに アイロン台
離れ暮らした 母娘が選ぶ
(とど)

2010年10月4日 作歌。

〈思い出し怒り〉。

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エプロンを 漂白剤に 浸けたまま
〈思い出し怒り〉に 沈む二時間
(とど)

2010年3月11日 作歌。

焦れる…

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夜半には 寝覚めベッドで
身を硬くして朝を待つ これは痩せます
(とど)

2010年1月6日 作歌。

妙にリアルで。

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故郷(ふるさと)の
終バスに居る 夢に乗り合わせる人を
憚る裸身
(とど)

2010年2月18日 作歌、2015年9月22日 改訂。

彼岸まで。

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ラーメンの 汁を飲んでも 汗ばまず
9月25日 陽の温き午
(とど)

2010年9月26日 作歌。

傍らに(って、距離感あるけど)

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冠菊(かむろぎく) さざめく空に
飛行機の 灯の点滅が ゆるりと過(よ)ぎる
(とど)

2012年8月17日 作歌。

一首鑑賞(17):小島ゆかり「神は人をあるいは人は神を得しゆゑに」

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神は人をあるいは人は神を得しゆゑに苦しからんか 雲よ
小島ゆかり『ヘブライ暦』

 小島は三十代の半ば、先に単身渡米していた夫のもとに子供達を連れて赴いた。『ヘブライ暦』には、東海岸ボルチモア郊外に住んだ二年間に作られた歌が多く収められている。
 歌集題から察せられる通り、ボルチモアでの生活は小島にユダヤ人社会との接触をもたらした。その中で生まれた情感は、戸惑いに類するものが少なくなかったようだ。ジューイッシュの友人達から立ち現れてくる「イスラエルの神」は、小島にとっては時に理解の及ばないものであったらしく、嘆息のような冒頭の一首を詠んでいる。
 神学者の北森嘉蔵は『聖書百話』においてノアの物語に言及する。神は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることがいつも悪い事ばかりであるのを見て、「主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め」たとある(創世記6章5~6節 口語訳)。北森は主著『神の痛みの神学』で、「神の愛が罪への反応として現れるとき、それは神の怒である。しかるに神はこの怒の対象たる我々を愛し給うた。かく怒を克服せる神の愛こそ神の痛みである」と述べ、イエス・キリストは十字架刑において「罪人に死を命じ給うべき神とこの罪人を愛せんとし給う神とが闘った」と結論づけている。
 小島の歌に戻ろう。神は人を造り出したために苦しんだ――これは聖書通りの神様の姿である。しかしおそらくは日本の伝統的な価値観の内にいる小島の目には、ユダヤ人を傍から見て「人は神を得しゆゑに苦しからんか」とも映っているのだ。――完全な義の神であるがゆえに我々を見て痛み苦しむ神を、神として仰ぎ見るがゆえに人は苦しむのではないか――。だが、小島の歌は問いかけとも逡巡ともつかぬ形に留められている。それは、「自由や平等や未来や、世界や個人のこと」を真剣に考える機会を与えてくれた、宗教の違う友人達の信仰と暮らしに、豊かさ、まぶしさ、そして幾分の矛盾――を小島が感じたからであろうことが、あとがきから読み取れる。
 果たして私達自身は、神からの喜びを証しする生き方ができているだろうか。

聞茶(56)…St. DALFOURのストロベリーティー

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毎年購入している【ルピシア】の福袋、今年は<バラエティ>を選んで心待ちにしていた。夏至の辺りに届いて梱包を解くと、中に《楽園》という緑茶ベースのトロピカル・フレーヴァードティーが。《楽園》は味的にはむしろ好きな方だ。おまけの「夏におすすめお茶セット」にもあったのを早速飲みながら、改めて成分表を見ると「サフラワー」が入っているという。
乳がんのホルモン治療を始めてしばらくした頃、色々なハーブがホルモン治療に反する効能(通経作用)を含んでいることをネットで知った。その代表格とも言えるのがサフランである。「サフラワー」…語の響きに何となく嫌な予感がして調べると、やはり生理不順解消に効果があるハーブだった。これは50gのリーフティーを一袋飲みきるのはあまり良くないなぁ…とちょっと思案して、作業所のある職員さんにかけあってみたところ、緑茶ベースのトロピカル・フレーヴァードティーは大好きだとのこと。それで、差し上げるつもりで次の通所日に持参した。
《楽園》の未開封のパックを見せると、職員さんは「物々交換しましょう」とSt. DALFOUR(サン・ダルフォー)のオーガニック・ストロベリーティーを出してきた。これは嬉しかったなぁ。
まぁでも、暑い季節もやってきていたので、貰ったストロベリーティーも1,2パック試しに飲んだだけで、その後はルピシアの福袋のお茶の水出しが主役として活躍。このところやっと涼しくなってきたので、時々温かいお茶も飲むようになり、またくだんのストロベリーティーにもお鉢が回ってきたわけだ。
ホットで淹れると苺の甘みが強く立つ。これはこれで悪くないが、最寄り駅の近くの洋菓子店で出してくれる、水出しのストロベリーティーの爽やかでまろやかな味を知っていたので、水出しのアイスティーも作ってみた。うん、やっぱりこっちの方がスキッとして美味しい。
難しいのは選盤だ。苺の甘みに似合う可愛い声質のヴォーカルもの、あまり持ってないような…。ホットなら、こなかりゆで決まりだろうけど、水出しだと全然そぐわない気がする。それで色々引っ張り出してきて聴き、うん、これかな?と思えたのは、グレゴリー・アンド・ザ・ホークの『Moenie and Kitchi』。ウィスパー系の甘さ、控えめなトラックが、St. DALFOURのオーガニック・ストロベリーティーに釣り合うんじゃないかな。

近頃は聞きません…

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入院の 患者ホウホウ 鳴く声が
待合ホールの 壁に波打つ
(とど)

2011年10月27日 作歌。

使いやすかったのに…/ _ ;

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気遣いで 机に置いた ボールペン
持ち去られるに 夜明けて気付く
(とど)

2010年3月6日 作歌、2015年10月14日 改訂。

褒めたつもりだったのに…

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不用意な 言に傷つく 同病に
気が付かされる 学歴意識
(とど)

2010年6月11日 作歌。

やんわりと。

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いざこざに 潜む僻みや 羨望に
明言避ける 作業所職員
(とど)

2010年6月25日 作歌、2015年10月24日 改訂。

一首鑑賞(18):上村典子「クリスマスソングに少女の四肢うたふ」

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クリスマスソングに少女の四肢うたふこゑはなけれど破顔一笑
上村典子『天花(てんげ)』

 上村は、肢体不自由児の学校に勤務している。(この歌の詠まれてしばらく後に、学校は、肢体・知的・聴覚・視覚・病弱の五障がい対応の総合支援学校に編成し直されている。)子供達の襁褓を交換していく上村の手際に、おむつ替えされる少女が優しい目を向けている様が次のように詠われる。

  のりこせんせい上手くなつたねことばなき少女に笑みのひろがりてくる

 掲出歌は、それに続く一首である。さらにその後には、下記の歌が並ぶ。

  校庭の樅の大樹に十二月生徒ら下ぐる金銀の鈴

 クリスマスソングは校内に流れていたのかもしれないし、あるいは「典子先生」が口ずさんでいたのかもしれない。いずれにせよ、テキパキとおむつ替えをしながらもちょっとした心のゆとりを感じさせる上村の姿は清々しい。少女もそんな先生に信頼しきって、発せられない声の代わりに両手脚が歌っているかのようであり、顔には満面の笑みが浮かんでいたという。
 ヘブライ人への手紙13章15節に「だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう」という聖句がある。子供達は口の代わりに全身で喜びを表しているようで、読むこちら側も明るい気分にさせられる。ああ、賛美って色々な形があるものだなぁ、と。

来た来た…!と。

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耳慣れた エンジン音を
響かせて 来る郵便配達人(ポストマン)に
窓辺へと寄る
(とど)

2012年9月14日 作歌。

一首鑑賞(19):高尾文子「いのち見に来よ来よとさそふ降誕月を」

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永遠の真日(まひ)のやうなるいのち見に来よ来よとさそふ降誕月を
高尾文子『約束の地まで』

この歌集の歌が作り溜められた間に、高尾には孫が誕生している。桜の咲く季節に生まれた赤子を見に行こうと高尾の心は踊る。その心持ちを表したのが掲出歌である。折しも時は十二月――。彼女は赤子の生命を「永遠の真日のやうなるいのち」と詠い、その命を見に「来よ来よ」と繰り返す。高尾がカトリックの信徒であることを考え合わせると、このリフレインは讃美歌「神の御子は今宵しも」 (Adeste Fideles/O Come All Ye Faithful。『讃美歌21』では259番「いそぎ来たれ、主にある民」) を踏まえているのだろう。『讃美歌21』より一節の歌詞を引く。

   いそぎ来たれ、主にある民、
   み子の生まれし ベツレヘム。
   うたえ、祝え、天使らと共ともに。
   来たりて拝(おが)め、来たりて拝め、
   来たりて拝め、いざ、共に。

高尾は赤子を心底いとおしみ、このようにも詠う。

  天からのよき贈りもの すこやかにきつちりと生え揃ひし乳歯
  ちさき夢そだてよ佳き児に糧となる本えらびをり聖夜近づく

一方、齢を重ねる高尾には心痛む別れもあったようだ。歌人の小高賢への挽歌の最後尾に次の歌が置かれている。

  ノエル、ノエル、ノエル、こよひの歌声に忘れえぬ死者みな帰りこよ

「忘れえぬ死者みな帰りこよ」の<みな>に注目したい。高尾には惜別の思いに見送った幾人もの人があったのだ。あるいは実際には会わずに既に眠りに就いている先達も、その中に含まれるのかもしれない。「ノエル…」のリフレインは、やはりクリスマスの讃美歌である「まきびとひつじを」(The First Noel)に登場する。逝く人もあれば、入れ違いに生を受ける者もいる。クリスマスの讃美歌を歌う頃、高尾はイエスの降誕の恵みを噛みしめ、同時にこの世を先に旅立った方々に思いを馳せる。
「まきびとひつじを」の最終節にはこうある。(『讃美歌21』258番)

   われらもこよいは 歌声合わせて
   平和をもたらす 主イエスをたたえよう。
   ノエル、ノエル、ノエル、ノエル、
   主イエスは生まれた。

(主イエスは私達のためにお生まれになったんです。ご一緒にお祝いしようじゃありませんか…!)そう心の内で叫ぶ高尾の声が聞こえてくるかのような一首である。

紙で上手くいった験しがなく…

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待合に 長く座す日は
茫として 携帯短歌に つらつら親しむ
(とど)

2010年6月9日 作歌。

眼つきの悪さは認めます…

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そそくさと 席を譲って 君は言う
「〈どけ、犬〉という目つきだった」と
(とど)

2011年7月31日 作歌、2015年8月中旬 改訂。

一首鑑賞(20):川藤青理沙「悲しみの果てに眠れる弟子を描く」

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悲しみの果てに眠れる弟子を描く医師なるルカのまなざしやさし
川藤青理沙『ヨルダンの岸辺』

 ルカは福音書の執筆者で、医師であった。四福音書の中でもルカによる福音書は、貧しい人や病気の人、社会的弱者に温かいまなざしを向けている書として知られている。そのことを川藤は、ハンセン病患者の精神医学調査を行った神谷美恵子や、長島愛生園の嘱託医を務めつつハンセン病患者の収容のために奔走した小川正子らと姿を重ね合わせて、「ルカのまなざし」という一連にまとめている。しかし一連の内、いや歌集全体を通しても出色なのは掲出歌であろう。
 ルカによる福音書22章39節以下には、この歌の下敷きとなった場面が描かれている。イエスは祭司長らに捕らえられる前にオリーブ山へ行き、一人祈る。44~45節には「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕 イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた」とある。同じ箇所をマタイによる福音書では「再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである」(26章43節)と記す。一方マルコによる福音書では、マタイと同じ文面に続け「彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった」の一文を加えて一節と成している(14章40節)。それにしても、眠りこけていた弟子達を<悲しみの果てに>と捉えるルカの優しさが光る。
 ルカが温情をもって見つめたのは、社会的弱者ばかりではなかったようだ。イエスと親しかった姉妹にマルタとマリアがいる。二人の話は、もてなしのため立ち働く自分を手伝うよう妹を説き伏せてほしいとイエスにお願いするマルタが逆に諌められたのを読んで、私達はどうかすると主がマリアを贔屓にしているかのように早合点しかねない。しかし、イエスは「マルタ、マルタ」と愛情を込めて二度呼びかけているのだ。同じようにシモン・ペトロも、イエスが十字架に架かる前の晩「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と呼びかけられている。これらは共にルカによる福音書にしか記載が無い。
 マリアより気働きができるものの人を裁きがちなマルタ。「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と勇ましく答えつつも主を裏切ってしまうことになるペトロ。気丈に見えながら弱さを内に抱えた二人に対して温かなお心をもって接せられたイエスを、ルカは注意深い筆致で書き留める。御言葉にイエスを辿る時、その場に居合わせたかのように私達は自身の姿も見出す。そこにルカの筆が一役買っているのは疑いもない。

厳密に言えば違うのかな…?

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小春日を 羽に透かして ひるがえり
高度を下げる 蜻蛉三つ四つ
(とど)

2011年10月27日 作歌。

アドヴェント2015:「天のかなたから」

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 街ではちらほらクリスマスソングを耳にする頃となってきた。これらの歌が世俗的で商業主義的な面を持っていることは否めないけれども、教会でも年末にかけては歌に満たされる時季である。それはどうしてだろうか?
 聖書の降誕物語には、既に「歌」が登場してくる。マリアが天使から受胎告知を受けるシーンでは、[マリアの賛歌](マグニフィカト)と呼ばれる賛美を神に奉げている。少し引用しよう。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。 身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、 力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、 その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。」(ルカによる福音書1:46~55) また、イエスの誕生の夜に野原で羊の番をしていた羊飼いを訪れた天使の大軍が、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカによる福音書2:14)と賛美の歌を歌っている。これは後に[グロリア]という讃美歌に発展していった。
 『讃美歌21』246番「天のかなたから」は、ドイツの宗教改革者マルティン・ルター夫妻が1535年のクリスマスに五人の子供達のために歌って聴かせた自作の讃美歌である。
 天のかなたからやって来て、神の御子イエス様の誕生を告げる天使とそれに答える子供達…。ルターと妻ケーテが亡くなってかなり経ってから、のこされた子供達は「うちの親父は財産は何も遺していかなかった。しかし親父とお袋は、僕らの動きたがらぬ唇に、創造の世界を賛美する歌を遺し、暗い心に明るい信仰の灯を点していってくれた。このような親を持ち得たことを僕らは誇りに思う」と語ったそうだ。
 いずれ十字架にかかるためにこの世にお生まれになったイエス様に、ふさわしい贈り物を私達は何も持ち合わせていない。私達はただ御名をたたえるだけの者であるが、恐れ多くもまさにそのことを神様が喜んで下さることを、御言葉が示している。

 後の世代のためにこのことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」( 詩編102編19節)

*参考文献:嶺重淑・波部雄一郎 編『よくわかるクリスマス』(教文館)、小塩節著『光の祝祭~ヨーロッパのクリスマス』(日本基督教団出版局)


今回は、ルター作曲の「天のかなたから」(Vom Himmel hoch, da komm ich her)のインストを三つご紹介しておきます。
(1) Thomas Battenstein(G)
(2) Jonas Khalil(G)
(3) Andreas Obieglo(Pf)
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