アドヴェントも2週目に入りました。今週は、遠藤周作や椎名麟三といった小説家や、阪田寛夫ら詩人、大学教授、牧師など20人によるクリスマス・エッセイ集『さやかに星はきらめき』を取り上げましょう。この本は、クリスマスと言うと想起されるステレオタイプの心温まる物語とはひと味違い、クリスマスにまつわる辛い思い出や、イエス様の誕生に伴って起こった悲しい出来事にも触れ、深く考えるきっかけを与えてくれる本です。今日はその中から、大学教員で詩人の森田進の書いた「子どもとクリスマス」について少しご紹介します。
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森田氏は、未熟児で生まれた双子の次男と三男を一日も経たぬうちに亡くされました。生き残ってしまった親という運命をどう生きて良いか分からず煩悶し、一種の自己破壊をその後数年つづけることになったそうです。そのうち森田氏は、神の子イエスの生誕がベツレヘムの多くの嬰児の虐殺を背景に抱えていたことに思いを凝らすようになったと語っています。その上で彼は、イエスが聖書のあちこちで子どもを死から甦らせるのに熱心であったのは、自身の生誕にまつわる悲劇と無関係ではないと説きます。神の子の誕生を恐れたヘロデ王の命令で多くの幼子が犠牲になったという悲惨な事実を引きずってイエスは成長したであろうと述べ、こう記します。「いわば夥(おびただ)しい血と引き換えに生を与えられたという重苦しい負い目から、イエスは当然自由にはなれなかったはずだ」。
さらに、父ヨセフがイエスの12歳の過越祭以降 聖書に登場しないことに触れ、イエスが母子家庭で育ったのではないかと推測し、それだけでなくイエスの兄弟姉妹が必ずしもイエスを信じていなかったらしいことからも、神の子としての道を歩まざるを得なかったイエスの激しい孤独の痛みを推し量っています。
出生の重さ、家庭的な不幸、神の子としての孤独を充分噛み締めていたイエスだったからこそ、民衆が引きずっている悲しみを自分のこととして引き受けられたのだと結論づけて、イエスが常に弱い立場の者の側に立っていたことを語ります。ルカによる福音書7章12節以下で、一人息子の死に嘆く寡婦に「もう泣かなくともよい」と言って、息子を生き返らせるイエスの姿に見られるように。
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真摯なエッセイが連ねられたこの本と共にご紹介するクリスマスアルバムは、ブライアン・カルバートソンの『A Soulful Christmas』。心の深いところから揺り動かすようなサウンドをお楽しみください。
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森田氏は、未熟児で生まれた双子の次男と三男を一日も経たぬうちに亡くされました。生き残ってしまった親という運命をどう生きて良いか分からず煩悶し、一種の自己破壊をその後数年つづけることになったそうです。そのうち森田氏は、神の子イエスの生誕がベツレヘムの多くの嬰児の虐殺を背景に抱えていたことに思いを凝らすようになったと語っています。その上で彼は、イエスが聖書のあちこちで子どもを死から甦らせるのに熱心であったのは、自身の生誕にまつわる悲劇と無関係ではないと説きます。神の子の誕生を恐れたヘロデ王の命令で多くの幼子が犠牲になったという悲惨な事実を引きずってイエスは成長したであろうと述べ、こう記します。「いわば夥(おびただ)しい血と引き換えに生を与えられたという重苦しい負い目から、イエスは当然自由にはなれなかったはずだ」。
さらに、父ヨセフがイエスの12歳の過越祭以降 聖書に登場しないことに触れ、イエスが母子家庭で育ったのではないかと推測し、それだけでなくイエスの兄弟姉妹が必ずしもイエスを信じていなかったらしいことからも、神の子としての道を歩まざるを得なかったイエスの激しい孤独の痛みを推し量っています。
出生の重さ、家庭的な不幸、神の子としての孤独を充分噛み締めていたイエスだったからこそ、民衆が引きずっている悲しみを自分のこととして引き受けられたのだと結論づけて、イエスが常に弱い立場の者の側に立っていたことを語ります。ルカによる福音書7章12節以下で、一人息子の死に嘆く寡婦に「もう泣かなくともよい」と言って、息子を生き返らせるイエスの姿に見られるように。
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真摯なエッセイが連ねられたこの本と共にご紹介するクリスマスアルバムは、ブライアン・カルバートソンの『A Soulful Christmas』。心の深いところから揺り動かすようなサウンドをお楽しみください。