故・高岡伸作牧師の『掌詩~てのひらの詩』(五行歌に近い詩形を集めた詩集)を読了。目に留まった詩を引いておきます。
バッハにも
哀しみがあったと
ある夜
眠れなく
なってしまった
ルターの眼が
蝉に似ている
と思ったら
ほんとに
鳴きだした
アウグスチヌスの
大耳に
びっくりした
以前は
あんなじゃなかった
『狂った一頁』
という説教を
聞いてから
ずっとその頁を
探している
クリスマス
高い空からの
歌声は
客間じゃ
聴こえないって
葬式も 墓も
僕は要らない
追悼文も要らない
ただ土に
還してくれればいい
「見よ わたしは
たなごころに
あなたを掘り刻んだ」 *イザヤ書49:16
たなごころ てのひら
傷痕のある掌
冬木を垂直に
かけ登り
かけ降り
降誕の告知で
天使は大忙しだ
『愛』はもともと
「ひそやかな歩み」を
表す字で
あったという
その姿 好もし
巨人ゴリアテは
地響きを立てて
倒れた
日曜学校の
薄暗い教室で
牧師さんが
変な節回しで
祝祷(しゅくとう)を唱えると
ホッとした
礼拝終り!
病院の待合室で
患者の時間が
どんどん
減って行くのを
見ていた
「わが魂は
乳離れした
嬰児のように」 *詩篇131篇
ヴィオラの
囁きのように
「来れ死よ
眠りの兄弟よ」
痛風病みの
カンタータ *(BWV56)
の一節
「わが目は はや
救いを見たり」 *ルカ福音書2:30
黄落(こうらく)の地に聴く
老シメオンの
歓びの歌
水面(みなも)に映った
大聖堂
北風の
ひと吹きで
粉々に
「愛しむ」
と書いて
「かなしむ」
と読むことの
かなしき
夜更けの窓には
いつもどこかに
クリスマスの
気配がある
遥かな呼び声
古びた
リードオルガンの
破れた風袋で
小さな風が
遊んでいた
忘れることも
恵みなのだ
とすれば
この身には
溢れる恵み
半生の間
馴染んだ聖書の
傷みいとおしく
1999年
待降節
聖誕劇の
終ったあと
隅暗がりに
飼葉桶(かいばおけ)
ひっそりと
ラ・トゥールの
沈黙の深みに
灯る蝋燭
受肉の秘儀は
秘儀のまま
*ラ・トゥール=画家(1652没)
枯枝に
雨の雫が
鈴なりの
降誕節
の朝
受難週
この痩せた足も
拭われたのだ
僕は誰かの足を
洗っただろうか?
「トキニハ
カキハニ
ミサカエアレ」*旧讃美歌568番
礼拝堂に響いた
厳かな呪文
二百八十四年前の
教会カンタータ
にある言葉
「力ある者は
分別を失い易く」*バッハBWV147
パリサイの徒に
囲まれて
あの方が地面に
書かれたのは
何であったのか
(ヨハネ福音書8:1以下)
急いで答えを
用意するな
それよりも
問いを持つこと
持ちつづけること
あの丘の
天文台への道
星空のMagnificat(マグニフィカート)
地を這う
通奏低音
言葉とならない
祈りには
覚えず洩らした
ため息のような
温もりがある
言葉にすると
失われるものがある
言葉と言葉の間に
生まれるものがある
この不思議
声にならなくても
歌は歌える
雪の晴れ間を
歌いだす
木のように
夜ごと 星の光に
洗われて
この小屋にも
クリスマスが
やって来る
蝋燭一本立てて
カロルを歌った
親子三人の
小さな小さな
クリスマスだった
(宮城県登米町)
人は老いるにつれ
忘れられてゆく
そこに生じるのは
余白か
それとも空白か
息苦しくて
歩けなくなった
足元に
ナズナ花咲く
今日は復活祭
「死ぬ時節には
死ぬがよく候」 *良寛
その時節は
誰も知らない
いい事だ
四角い梅雨空を
眺め暮らした
病院の窓
ノアさんの気持ちが
少し分かった
神学校の
古いオルガンで
バッハの小フーガを
君は弾いていた
夕明りの窓
(S兄)
先に逝った者と
過ごすことが
多くなった
急がなくていい
温もりのひと刻(とき)
一人でいると
ふと傍に
来てくれている
彼ら逝きし者の
穏やかな友情
己(おの)が古傷を
そっと温めていると
他に与えた
傷の記憶も
疼きはじめる