ライヴっていうのは「ゆめじゃないよ」ってゆう夢をみる場所なんですね
穂村弘『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』
2020年度はわがN教会でも行事をことごとく中止にせざるを得なかった。その一つが、参遊亭遊助さんの落語会である。遊助さんの持ちネタは伝統的落語に止まらず《聖書落語》《英語落語》《落語 DE 社史》《地域落語》《馴れ初め落語》《故人想い出落語》と幅広く、大変人気のある噺家さんで2020年も口演のご予定がビッチリ入っていたが、コロナの威力は凄まじく半数以上がキャンセルになってしまったようだ。が、そこは転んでもタダでは起きない遊助さん、元々YouTubeに多数の落語動画をupしているだけの実力家なので、今はオンラインでの落語会も増えてきているらしい。
私がよく話題にするFEBCで、今クールは【Session―イエスのTuneに合わせて】 が放送されているが、その10月15日の放送分でゴスペルシンガーの塩谷達也さんが「ライヴの時しか伝わらないものがある」と仰り、ライヴで飛び交う言葉を「生き物」と表現されていたのが忘れ難い。穂村の掲出歌も、ライヴ空間を〈「ゆめじゃないよ」ってゆう夢をみる場所〉と、演奏家と観衆が一体となって音楽を共有するリアルな感動と恍惚感を十二分に言い表している。
コロナウイルス感染症の拡大に伴いオンラインで礼拝を行なっていた教会なども、少しずつ教会堂に参集しての礼拝に戻ってきているところも少なくない。N教会では一時礼拝出席者は減ったものの会堂での礼拝は守られ続けていたが、飛沫感染を防ぐため礼拝中会衆は声を出さず、讃美歌・使徒信条・主の祈りなどは心のうちに唱えるようになっていた。こうした礼拝の簡略化に最初の頃こそかなり動揺したが、徐々に慣れていったのも実際のところ。月初の長老会では、教会の礼拝の持ち方や活動計画について、感染情況を見据えつつ綿密に討議して月々の方針を決定していって下さった。そしてつい先日10月第二日曜日から、約半年ぶりに礼拝堂に讃美歌の朗唱が響いた。ただそれは講壇のアクリルパネル内において、牧師による讃美歌一節のみの独唱ではあったが。しかしその讃美の声を聴いて、明らかに内心込み上げるものがあった。ああ、私は主を賛美したかったんだ、とその思いに打ち震えた。最前列の方に座っていたある信徒が歌声を聴いて、鞄からハンカチを出して頰を押さえていたのが見えた。
ヨハネの手紙 一 1章冒頭に、「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。(中略)わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」とある 。弟子のヨハネはイエスの間近にいて、イエスの涙、憤り、傷をつぶさに見てまた触れた。
皆が集って礼拝する素晴らしさは、そこにいた者にしか分からない。けれどイエスのご復活を目の当たりにした弟子達から、私達はその喜びを受け継いだ。——イエスは復活されたよ、夢じゃないよ——今ほどそれを伝えたい時はない。
穂村弘『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』
2020年度はわがN教会でも行事をことごとく中止にせざるを得なかった。その一つが、参遊亭遊助さんの落語会である。遊助さんの持ちネタは伝統的落語に止まらず《聖書落語》《英語落語》《落語 DE 社史》《地域落語》《馴れ初め落語》《故人想い出落語》と幅広く、大変人気のある噺家さんで2020年も口演のご予定がビッチリ入っていたが、コロナの威力は凄まじく半数以上がキャンセルになってしまったようだ。が、そこは転んでもタダでは起きない遊助さん、元々YouTubeに多数の落語動画をupしているだけの実力家なので、今はオンラインでの落語会も増えてきているらしい。
私がよく話題にするFEBCで、今クールは【Session―イエスのTuneに合わせて】 が放送されているが、その10月15日の放送分でゴスペルシンガーの塩谷達也さんが「ライヴの時しか伝わらないものがある」と仰り、ライヴで飛び交う言葉を「生き物」と表現されていたのが忘れ難い。穂村の掲出歌も、ライヴ空間を〈「ゆめじゃないよ」ってゆう夢をみる場所〉と、演奏家と観衆が一体となって音楽を共有するリアルな感動と恍惚感を十二分に言い表している。
コロナウイルス感染症の拡大に伴いオンラインで礼拝を行なっていた教会なども、少しずつ教会堂に参集しての礼拝に戻ってきているところも少なくない。N教会では一時礼拝出席者は減ったものの会堂での礼拝は守られ続けていたが、飛沫感染を防ぐため礼拝中会衆は声を出さず、讃美歌・使徒信条・主の祈りなどは心のうちに唱えるようになっていた。こうした礼拝の簡略化に最初の頃こそかなり動揺したが、徐々に慣れていったのも実際のところ。月初の長老会では、教会の礼拝の持ち方や活動計画について、感染情況を見据えつつ綿密に討議して月々の方針を決定していって下さった。そしてつい先日10月第二日曜日から、約半年ぶりに礼拝堂に讃美歌の朗唱が響いた。ただそれは講壇のアクリルパネル内において、牧師による讃美歌一節のみの独唱ではあったが。しかしその讃美の声を聴いて、明らかに内心込み上げるものがあった。ああ、私は主を賛美したかったんだ、とその思いに打ち震えた。最前列の方に座っていたある信徒が歌声を聴いて、鞄からハンカチを出して頰を押さえていたのが見えた。
ヨハネの手紙 一 1章冒頭に、「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。(中略)わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」とある 。弟子のヨハネはイエスの間近にいて、イエスの涙、憤り、傷をつぶさに見てまた触れた。
皆が集って礼拝する素晴らしさは、そこにいた者にしか分からない。けれどイエスのご復活を目の当たりにした弟子達から、私達はその喜びを受け継いだ。——イエスは復活されたよ、夢じゃないよ——今ほどそれを伝えたい時はない。