使い捨てペーパータオルが屑かごに溢れておりぬ月曜の朝
丸山光(2020年4月6日のTwitterより)
「丸山光」と聞いて、はてどこかで見覚えのある名前だなと思う方もいるのではなかろうか。丸山氏は『信徒の友』の読者文芸欄〈短歌〉の常連投稿者であり、埼玉県の南桜井キリスト教会の牧師をなさっている。昨年Twitterで縁あって相互フォローするようになったのだが、平明な言葉で深い洞察を感じさせる短歌を日々Twitterに記していて、見るたびに唸らせられている。
掲出歌は一見ありふれた情景が詠まれているように思われるかもしれない。この歌には次の添え書きがある。
月曜日の朝、屑籠の中にペーパータオルが溢れているのを見るのはうれしいことです。それだけ礼拝に人が多かったからです。今日の屑籠の中はほぼからでした。礼拝に来られなない潜伏クリスチャン状態の教会員の霊性が守られますように。
新型コロナウイルス感染症の拡大に伴い、各地の教会でも否応なしに集会の中止・礼拝の短縮化に追い込まれている。私の属するN教会の4月の状況だけ列記してみても、
第1週▶︎聖餐式・交読詩編の省略。礼拝中、会衆は声を出さない(讃美歌・使徒信条・主の祈りなどは心のうちで唱える)。教会学校や祈祷会の当面休止のお知らせあり。
第2週▶︎讃美歌は1節のみ奏楽(繰り返さない)。イースター愛餐会・祝会・イースターエッグハントの中止。教会総会に代え、議決権行使書の発表。
第3週▶︎予定していた教会総会の取りやめ(延期)
第4週▶︎永眠者を憶えての祈りの省略。年度計画では草取りが予定されていたが、話題にすらならなかった。
という状況である。どんどん簡略化される教会活動に、礼拝に出席するごとに精神的にダウンして帰宅するのが正直なところ。教会に集えること、歌えること、聖餐に与れることが当たり前ではないのを思い知らされている。
見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。 (詩編133編1節)
4月23日の丸山氏のTwitterには次の短歌が載せられた。
いつもより説教はやく終わります 妻と二人の礼拝なれば
また、4月26日のTwitterには、
家にいてたまに二階にかけあがり賛美歌うたい過ごしています
という歌が記され、「今日も各家庭での礼拝となります。コロナの騒動が終わった時に社会が激変するのではないかと言う恐れがあり、さらに、教会はどうなるのかと思いを馳せています。」のひと言が添えられていた。
最近の私は、日本聖書協会の聖書本文検索というページで「いつまで」というキーワードを入力して検索し、その中から詩編に絞り込んで検索結果を見て、該当詩編を少しずつ聖書で読んだりしている。そのうちの一つ、詩編74編9節に「わたしたちのためのしるしは見えません。今は預言者もいません。いつまで続くのかを知る者もありません。」という御言葉が見出せる。無論その言葉を見たからと言って、安易に慰められるわけではない。ただ、状況は違えど詩編の時代の人々もそうやって、祈りともならぬ思いを主に連綿と訴え続けたのだということだけは分かる。——「いつまでですか?」——その言葉に慎みは無いだろう。けれど、嘘偽りのない言葉で主に向かっていくことを、他ならぬ神が今望んでおいでだと私は思う。
丸山光(2020年4月6日のTwitterより)
「丸山光」と聞いて、はてどこかで見覚えのある名前だなと思う方もいるのではなかろうか。丸山氏は『信徒の友』の読者文芸欄〈短歌〉の常連投稿者であり、埼玉県の南桜井キリスト教会の牧師をなさっている。昨年Twitterで縁あって相互フォローするようになったのだが、平明な言葉で深い洞察を感じさせる短歌を日々Twitterに記していて、見るたびに唸らせられている。
掲出歌は一見ありふれた情景が詠まれているように思われるかもしれない。この歌には次の添え書きがある。
月曜日の朝、屑籠の中にペーパータオルが溢れているのを見るのはうれしいことです。それだけ礼拝に人が多かったからです。今日の屑籠の中はほぼからでした。礼拝に来られなない潜伏クリスチャン状態の教会員の霊性が守られますように。
新型コロナウイルス感染症の拡大に伴い、各地の教会でも否応なしに集会の中止・礼拝の短縮化に追い込まれている。私の属するN教会の4月の状況だけ列記してみても、
第1週▶︎聖餐式・交読詩編の省略。礼拝中、会衆は声を出さない(讃美歌・使徒信条・主の祈りなどは心のうちで唱える)。教会学校や祈祷会の当面休止のお知らせあり。
第2週▶︎讃美歌は1節のみ奏楽(繰り返さない)。イースター愛餐会・祝会・イースターエッグハントの中止。教会総会に代え、議決権行使書の発表。
第3週▶︎予定していた教会総会の取りやめ(延期)
第4週▶︎永眠者を憶えての祈りの省略。年度計画では草取りが予定されていたが、話題にすらならなかった。
という状況である。どんどん簡略化される教会活動に、礼拝に出席するごとに精神的にダウンして帰宅するのが正直なところ。教会に集えること、歌えること、聖餐に与れることが当たり前ではないのを思い知らされている。
見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。 (詩編133編1節)
4月23日の丸山氏のTwitterには次の短歌が載せられた。
いつもより説教はやく終わります 妻と二人の礼拝なれば
また、4月26日のTwitterには、
家にいてたまに二階にかけあがり賛美歌うたい過ごしています
という歌が記され、「今日も各家庭での礼拝となります。コロナの騒動が終わった時に社会が激変するのではないかと言う恐れがあり、さらに、教会はどうなるのかと思いを馳せています。」のひと言が添えられていた。
最近の私は、日本聖書協会の聖書本文検索というページで「いつまで」というキーワードを入力して検索し、その中から詩編に絞り込んで検索結果を見て、該当詩編を少しずつ聖書で読んだりしている。そのうちの一つ、詩編74編9節に「わたしたちのためのしるしは見えません。今は預言者もいません。いつまで続くのかを知る者もありません。」という御言葉が見出せる。無論その言葉を見たからと言って、安易に慰められるわけではない。ただ、状況は違えど詩編の時代の人々もそうやって、祈りともならぬ思いを主に連綿と訴え続けたのだということだけは分かる。——「いつまでですか?」——その言葉に慎みは無いだろう。けれど、嘘偽りのない言葉で主に向かっていくことを、他ならぬ神が今望んでおいでだと私は思う。