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Channel: 水の門
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一首鑑賞(64):榎本麻央 “「世界中」と言つてしまふとき”

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「世界中」と言つてしまふとき夕暮れは神のまぶたの裏側となる
榎本麻央『一杯の水』

 榎本の掲出歌を一読、すぐに光森裕樹の下記の歌が浮かんだ。

  あかねさすGoogle Earthに一切の夜なき世界を巡りて飽かず /光森裕樹『鈴を産むひばり』

 地上の光景をリアルタイムではないとはいえ、映像化して見せてくれるストリートビューを実現したGoogle Earth。その映像には夜はない——いつも白昼の風景である。この歌が発表された2008年にはまだ目新しかったこの技術との出会いに、光森は世界を同一地平線上に捉えられるかのごときある種の全能感に興奮冷めやらぬ様子だった。それと比して榎本の歌は、闇も光も併存する文字通りの球体として世界を描き出している。
 「世界中」と口にするのは少し危うい。あたかも、皓々とした光源が全てを隈なく照らし「世界中」に散らばっている多種多様な個性を削ぎ落としてゆくのを眺めている感が付きまとう。また、一日を終える「夕暮れ」の休息も、人には許されていないかのような含みもある。榎本はそれに対し本能的に抗っているのではないか。
 讃美歌1篇に、「きけや愛の言葉を」(453番)という歌がある。第1節の歌詞を引用してみよう。

   きけや愛の言葉を、もろ国人らの
   罪とがをのぞく主の御言葉を、
   主のみことばを。
   やがて時は来らん、神のみ光りの
   あまねく世をてらす あしたは来らん。

 あまねく世をてらすあした、とあるが、これは《明日》ではなく《朝》の意の「あした」である。神は自らの瞼の内側に光を留めおかず、朝の光として人々の上に満たす。讃美歌に拠れば、それは世界中の人々の罪とがを取り去る光である。
 掲出歌には次の一首が続く。

  めぐりゆく血を隠してゐる人間よ名もなきものに光はきざす

 人間を流れている血液は、体内に隠されている。謂わば闇の部分にあり、通常取り沙汰されることもない。そうした部分にも神は光を注ぐ。平然とした表情の下に人が必死に押し留めている呻きにも——。イエスは「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」(ヨハネによる福音書3章20〜21節)と仰った。
 人間は、ありのままの自分を照らし出されたら、竦まざるを得ない者である。しかし、主のみ光は「罪とがをのぞく」御言葉なのだ。創世記1章では「夕べがあり、朝があった」と繰り返しつつ、世界が形造られていく様が述べられる。神が休まれたように、被造物にも休息の時がある。これは深い慰めである。

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