三枝浩樹の歌集『みどりの揺籃』を読了。目に留まった歌を引いておきます。
・病む者のなべてを仰ぐ目の位置やその視野に降る雪は翳りて
・癒さるることを否みて病むひとに苦の祖国苦のキリスト寄れり
・みずからをあやめるごとく食断ちしシモーヌ・ヴェーユ一滴の水
・ベンハーに一椀の水あたえにし砂漠のひとぞ無力なりける
・苦しむということ神に近づくや春雪は降るかの暗きより
・今のフーガはピアノなりしかこの耳を確かに占めておりしひかりよ
・救済はついに予定にすぎざれば予定のなかに住まう羞しも
・窓の外はあまねくぬるる霧の雨 Cesar Franck フーガのふるえ
・審かれてあるいはあると滴れる予感に対う椅子をはなれて
・居心地のその温さこそにくしみか家のまなかに今日われは居る
・われは〈吾〉を許して家のなかに居つしずかな雪を降りつもらせて
小さな美術館の仄暗い静もりの中で、グワッシュとパステルで描かれた一枚の絵の前で私は思わず立ちつくしてしまった。目をかっとみひらいた「聖顔」をルオーは何点か描いているが、この「聖顔」のキリストは深い沈黙を湛えて目を閉ざしているのである。こんな哀しみに充ちた人間の顔を私は知らなかった。
・存(ながら)えてあればびょうびょうと迷うかなジョルジュ・ルオーの静もりのなか
・不信へとかたむく風の翼みゆ祈りのみずのなかに没りても
・浜田到は夜(よ)の人 ひとり淵のなかに〈小さな聖者〉視んとせしかな
・「聖顔」の黄の人はまなこ瞑りおりそこ過ぐるときただようわれは
・ヨハネの子シモン、ヨハネの子シモン、ヨハネの子シモン……と三度(みたび)問いましき
・地の人のこの世の人のひとりとぞおもいたまわん「ケパ」とは呼ばず
・アガペーの光(かげ)をまぶしみたたずむにフィディオの森を示したまいぬ
・三度(みたび)否み三度応えし使徒をおもい湧くシモン・ペテロの悲しもよ肉
・よみがえりの言葉に三度(みたび)応えしが肉撃たざりし使徒なりしかも
・たましいは肉 言葉もて応えせし使徒の無力をいかに嘆かん
・肉のなかに食いこんでくるたましいの言葉を今に持たずあるかな
・アフリカの飢餓を祈りのなかに入れややはにかみて箸をとる子は
・否まれしひとりの使徒の走りたるかの夜の闇をおもうことあり
・一生がすなわち試みの手にあると知るよしもなきヨブという人
・すきとおる畏れの朝にめざめたり肉体を率(い)てたましいは有る
・ひとひらの記憶となりてねむりいるシモーヌ・ヴェーユ、飢餓という愛
・どうせ Black Sheep さおれはと言いながらあおむきてなみだこぼさざりけり
・こわれかけてぼくがぶらんこに濡れいるをジョバンニがふと気づきふりむく
・折れし歯を見するとわれに寄りしとき頬をすべりてこぼれしなみだ
・みせしめとして撲(う)たれたる顎と額まこと傷めしは人格なれば
・病む者は病む者として裁かるるかかる原理をいまに抱けり
・人となるとは如何なることぞ 羊水の眠りはるかな揺籃期みゆ
・にんげんはすべてみにくし「聖顔」のかなしみの人ひとみ閉ざせり
・盲目の子を率(い)てバスを待つひとありなにに恥(やさ)しくわれは過ぎ行く
・ねがいからしずかに離(さか)り駆け出だすそのするどさを悲しみと言え
・カンディンスキーのコンポジションにあそびつつわれになきこの夢の法則
・もつことのおおき人生 さいわいをそこにもとめて奪いたり見ゆ
・パンのみに生くるならずと祈れども食(は)み余すこの夜のテーブル
・今日のパン明日の衣服をまず思うその断崖(きりぎし)を現実とせよ
・地球儀を子とまわしおり裏側の餓死、飽食の食卓の燦
・しかもパン求めざりしか 四十夜ののち飢えもて応えたる人
・現実(うつつ)とは言葉の現場 野の百合を根ながら提げてひとは来にけり *ひとに傍点
・まっすぐに南をみつめいたりけり貧こそ汝れに光(かげ)を明かさん
・なんじのパンを水に投ぜよ 夕焼けはいまも少年を住まわせいるか
・苦シミノ日ニ我レを呼ベ…… かれくさのひかり斜面(なぞえ)をくだる風みゆ
・肉の死をわが死となすや セーターに舞いきてしばし翳る風花
・汝は我レに従エ……シタガエ…… 冬空は紺を生むまで高く澄みたり
・フランシス・ジャムをひもとく土曜日の朝よりの雨こころに及ぶ
・わが友のフランク・サウダーひとすじのただひとすじの光(かげ)に従えり
・苦しむことなき愛などはあらざらんいましずかなるイエスをもてり
・車中の人となるひそやかな孤独感伝えて愛に及ぶ手紙や
・マーラーのひかり新しき風景にけさは会いたりペダル漕ぎつつ
・文月の朝のあかるさ 救済というひと隅のひかりをおもう
・内面へ降りゆく階がいまもなおあると信じていると伝えよ
・夏おわる夕光(ゆうひかり)みゆ やがて来んいのちの秋をいかに生きなん
・死ぬる日は生まれくる日にまさるとは誰の口もて出でし言葉ぞ
・重力のなかにひとすじくだりくる恩寵というひかり思えり
・Kyrie(キリエ)終らんとする頃充ちる夕光(ゆうひかり) こころに冥府というものありて
・忘れいしキルケゴールの一節の断崖(きりぎし)に吾をたたしめており
・こころいま伽藍のごとし 壮年の服もておおう死にいたる科(とが)
・にくしみはやすやすと一箇の吾を容れぬ 晩餐にいかにあずかりしユダ
・悲は罪の罪は祈りの海辺までうねりつつふるえつつかく澄めり
・かなしみの矢こそいずくに放たんかみずから的となるほかはなく
・ひえびえと庇護なき朝にめざめたり庇護なき朝はするどかりけり
・ユダと呼ぶしずかなる闇 壮年の坂をのぼれる折ふしに見ゆ
・わずかなるものをもてれば貧しさはわが内にあり外(と)にはあらざる
・人はなお死をもてること おそろしくかつあたらしき啓示なるべし
・桑の実をとりにゆこうか ささやかないまに果たせぬやくそくのあり
・病む者のなべてを仰ぐ目の位置やその視野に降る雪は翳りて
・癒さるることを否みて病むひとに苦の祖国苦のキリスト寄れり
・みずからをあやめるごとく食断ちしシモーヌ・ヴェーユ一滴の水
・ベンハーに一椀の水あたえにし砂漠のひとぞ無力なりける
・苦しむということ神に近づくや春雪は降るかの暗きより
・今のフーガはピアノなりしかこの耳を確かに占めておりしひかりよ
・救済はついに予定にすぎざれば予定のなかに住まう羞しも
・窓の外はあまねくぬるる霧の雨 Cesar Franck フーガのふるえ
・審かれてあるいはあると滴れる予感に対う椅子をはなれて
・居心地のその温さこそにくしみか家のまなかに今日われは居る
・われは〈吾〉を許して家のなかに居つしずかな雪を降りつもらせて
小さな美術館の仄暗い静もりの中で、グワッシュとパステルで描かれた一枚の絵の前で私は思わず立ちつくしてしまった。目をかっとみひらいた「聖顔」をルオーは何点か描いているが、この「聖顔」のキリストは深い沈黙を湛えて目を閉ざしているのである。こんな哀しみに充ちた人間の顔を私は知らなかった。
・存(ながら)えてあればびょうびょうと迷うかなジョルジュ・ルオーの静もりのなか
・不信へとかたむく風の翼みゆ祈りのみずのなかに没りても
・浜田到は夜(よ)の人 ひとり淵のなかに〈小さな聖者〉視んとせしかな
・「聖顔」の黄の人はまなこ瞑りおりそこ過ぐるときただようわれは
・ヨハネの子シモン、ヨハネの子シモン、ヨハネの子シモン……と三度(みたび)問いましき
・地の人のこの世の人のひとりとぞおもいたまわん「ケパ」とは呼ばず
・アガペーの光(かげ)をまぶしみたたずむにフィディオの森を示したまいぬ
・三度(みたび)否み三度応えし使徒をおもい湧くシモン・ペテロの悲しもよ肉
・よみがえりの言葉に三度(みたび)応えしが肉撃たざりし使徒なりしかも
・たましいは肉 言葉もて応えせし使徒の無力をいかに嘆かん
・肉のなかに食いこんでくるたましいの言葉を今に持たずあるかな
・アフリカの飢餓を祈りのなかに入れややはにかみて箸をとる子は
・否まれしひとりの使徒の走りたるかの夜の闇をおもうことあり
・一生がすなわち試みの手にあると知るよしもなきヨブという人
・すきとおる畏れの朝にめざめたり肉体を率(い)てたましいは有る
・ひとひらの記憶となりてねむりいるシモーヌ・ヴェーユ、飢餓という愛
・どうせ Black Sheep さおれはと言いながらあおむきてなみだこぼさざりけり
・こわれかけてぼくがぶらんこに濡れいるをジョバンニがふと気づきふりむく
・折れし歯を見するとわれに寄りしとき頬をすべりてこぼれしなみだ
・みせしめとして撲(う)たれたる顎と額まこと傷めしは人格なれば
・病む者は病む者として裁かるるかかる原理をいまに抱けり
・人となるとは如何なることぞ 羊水の眠りはるかな揺籃期みゆ
・にんげんはすべてみにくし「聖顔」のかなしみの人ひとみ閉ざせり
・盲目の子を率(い)てバスを待つひとありなにに恥(やさ)しくわれは過ぎ行く
・ねがいからしずかに離(さか)り駆け出だすそのするどさを悲しみと言え
・カンディンスキーのコンポジションにあそびつつわれになきこの夢の法則
・もつことのおおき人生 さいわいをそこにもとめて奪いたり見ゆ
・パンのみに生くるならずと祈れども食(は)み余すこの夜のテーブル
・今日のパン明日の衣服をまず思うその断崖(きりぎし)を現実とせよ
・地球儀を子とまわしおり裏側の餓死、飽食の食卓の燦
・しかもパン求めざりしか 四十夜ののち飢えもて応えたる人
・現実(うつつ)とは言葉の現場 野の百合を根ながら提げてひとは来にけり *ひとに傍点
・まっすぐに南をみつめいたりけり貧こそ汝れに光(かげ)を明かさん
・なんじのパンを水に投ぜよ 夕焼けはいまも少年を住まわせいるか
・苦シミノ日ニ我レを呼ベ…… かれくさのひかり斜面(なぞえ)をくだる風みゆ
・肉の死をわが死となすや セーターに舞いきてしばし翳る風花
・汝は我レに従エ……シタガエ…… 冬空は紺を生むまで高く澄みたり
・フランシス・ジャムをひもとく土曜日の朝よりの雨こころに及ぶ
・わが友のフランク・サウダーひとすじのただひとすじの光(かげ)に従えり
・苦しむことなき愛などはあらざらんいましずかなるイエスをもてり
・車中の人となるひそやかな孤独感伝えて愛に及ぶ手紙や
・マーラーのひかり新しき風景にけさは会いたりペダル漕ぎつつ
・文月の朝のあかるさ 救済というひと隅のひかりをおもう
・内面へ降りゆく階がいまもなおあると信じていると伝えよ
・夏おわる夕光(ゆうひかり)みゆ やがて来んいのちの秋をいかに生きなん
・死ぬる日は生まれくる日にまさるとは誰の口もて出でし言葉ぞ
・重力のなかにひとすじくだりくる恩寵というひかり思えり
・Kyrie(キリエ)終らんとする頃充ちる夕光(ゆうひかり) こころに冥府というものありて
・忘れいしキルケゴールの一節の断崖(きりぎし)に吾をたたしめており
・こころいま伽藍のごとし 壮年の服もておおう死にいたる科(とが)
・にくしみはやすやすと一箇の吾を容れぬ 晩餐にいかにあずかりしユダ
・悲は罪の罪は祈りの海辺までうねりつつふるえつつかく澄めり
・かなしみの矢こそいずくに放たんかみずから的となるほかはなく
・ひえびえと庇護なき朝にめざめたり庇護なき朝はするどかりけり
・ユダと呼ぶしずかなる闇 壮年の坂をのぼれる折ふしに見ゆ
・わずかなるものをもてれば貧しさはわが内にあり外(と)にはあらざる
・人はなお死をもてること おそろしくかつあたらしき啓示なるべし
・桑の実をとりにゆこうか ささやかないまに果たせぬやくそくのあり