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『マリアのいない夏』より

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河野小百合の歌集『マリアのいない夏』を読了。目に留まった歌を引いておきます。


・失(なく)したくないなら地上(つち)におろしなさい十センチほどの鳥が来ている
・産むことのないウエストのやわらかさ明日は私のために生きたい
・箱庭に地獄をつくる秋の午後すべてを宥してきたとおもいぬ
・銀色のマウスの冷えを少しだけ違える秋のデスクにつきぬ
・点火祭のふけゆく夜の中庭に少女がすてるグラスの真水

・昨日雪の林の径(みち)に残し来しわたしを探しにゆく朝である
・地層までしみこむような如月の朝のひかりに子宮がいたむ
・春の日がプールのように満ちている産院うらの雑木の林
・ファムファタルいえオムファタル春の夜にさめきっているスチームアイロン
・カーラジオの周波数替えられてあることに気づきてさびし通勤ラッシュ

・検索をする窓の外木々たちが隣人として私をかこむ
・あじさいの青ふかくなり頭痛薬また一箱を使いきりたり
・とりわける白身魚のやわらかさ生産的愛にとおく生き来て
・なだらかに眉ひきいれば昼のころ哀悼の鐘みじかくなりぬ
・ひとりひとりに事情はありて秋桜の閉じ込められてさく硝子瓶

・からみあいて樹々のくらしている森に頬に傷持つマリアは立つ
・焼却炉に椿の花をなげこみぬ頑張ることにすこし疲れて
・「EASY CARE」表示のありしブラウスをえらびて春の細き雨脚
・肩書きにつらなることのなきわたし子のためでない雛(ひいな)をかざる
・刈られたる草のにおいが喉元にひとかたまりとなりてのぼり来

・主語のない生活をまだつづけるのレーズンバターはあまくひろがる
・刈り込まれた糸杉のにわ輪郭を失ってゆくわたくしのある
・白山通りにもとめし銀のフレームの聖人たちの顔のくらさや
・声低く賛美歌うたう悩みだけが生きがいのような中年の群
・ひとりびとりの鬱が調和し賛美歌がまこと平凡に流れるホール

・カラヴァッジオの少年のようまっしろな種のつまった無花果をはむ
・眼の奥に痛みののこる朝をきて雨の香のする新聞ひらく
・むきあいてビーフシチュウを食みながらあなたと老いることはできない
・白和えのくちにとけゆくなめらかさ母が薬の時間なるべし
・切り口をたがえてならぶアボガドや非連続的な女わたくし

・ここからならまだ方法があるらしくしきりに右折せよとすすめる
・ファサードの鳩にふりつむけさの雪戦争はもうはじまっている
・中庭にふりつむ雪の明るさに自動ピアノがフォスターうたう
・神ならず地上の朝をみおろせばなにかが生まれてくるような霧
・夕されば〈カラオケ賛美歌〉なるものをもちて本屋が入りくるなり

・星々のさわがしき夜や私はねむいんですよただねむくって
・どの窓にも雲がながれるこんな日は指のさきより眠りが生(あ)れる
・くもの巣に蜘蛛あらぬ午後病室に足裏みせてねむりいる母
・カーソルを点滅させるかたわらにドナーカードの天使来ている
・バスローブゆるくたたまれ 君にならあげてもいいわわたしの臓器

・傷つきしコンタクトレンズこの朝もきている瑠璃の鳥にあたえん
・空青くすむ聖五月この朝けステンドグラスの鳥息絶ゆる
・自立とはなに自立とは ヨーグルトに沈みきれないこの朝の桃
・くせのあるパテをゆっくり食みている悲しくてひとは死ぬことはない
・朝光に飛びたつは二羽湖上よりふきくる風が乳房を冷やす

・厚みあるチーズケーキにさすひかり離れればみえてくるものあらん
・ひとあらぬ教会のなかくれないのリボンむすばれて動けざる椅子
・鐘の音が湖(うみ)を渡りてくる夕べ長き手紙を封にもどしぬ
・要塞のような教会のふかき窓冬の夕べの雨はじきおり
・地上より浮遊したがるわたくしのからだをつなぎとめる鉄剤(フェロミナ)

・ごく微量の毒薬(カンタレッラ)をしのばせて春のあしおとがちかづいてくる
(夢二首)・ひれながきものを産みたり湖の道は春まであかないという
・折紙をひらいたような夜だったざむざむと熱ざむざむと夢
・ほんとうに怖いのは司祭右左おきかえる石のおもさをはかる
・本当のことはいわない優しさの舌におもたきポーチドエッグ

・おもいのほか明るき病舎つる薔薇がトルコ桔梗にかわりていたり
・幸水をむきやる傍に金メダルつげるニュースがたかぶりている
・ことのほか鉛筆の芯とがらせてこの朝はおり鳩は下りこず
・魚買い牛乳を買い病む師にはかかわりのなき週末のくる
・キプロスよりつれてこられし篝火花(シクラメン)われの窓辺に夢をみている

・家系図のまじわることのなきさだめサント・ヴィクトワール山あなたも愛す
・またつかいきってしまった鎮痛剤雪に汚れたキャンパスを出る
・やわらかく君のからだを包みいる紺のカシミアしずかに祈る
・あぶらこき寒鰤の身をほぐしいる箸のさきより生まれるソナタ
・眼球のおくより痛み生れつづけ春にまぢかく立つ八ヶ岳

・エレベーターのなかまで桜入りきたり母の点滴はおわりしころか
・そこよりは出られぬ鳥がカンバスにはばたきつづく夏美術館
・ビンラーディンの妻すてゆきしグラビアの女ことごとく顔のなかりき
・むらさきのブルカ残され誰もいぬ住居にほそく秋の陽は射す
・ツインタワーの崩れてゆきし青空に吸い込まれゆきし悲鳴幾千

・得意気なブッシュの顔が十九時のニュースにながれアメリカ嫌い
・折鶴の三羽のこされて誰もいぬ朝の図書館に光をいれる
・アララギの系譜しめされし高原の文学館におよぐシナプス
・台風のちかづいてくる秋の日の昇級通知のうすきてざわり
・いつしかに窓に星座はめぐりゆきグラスにとかす眠薬の濁

・嫉妬ぶかき神ののろいの霧の中落花をひろう雷鳥の影
・いつしかももの思わなくなりし吾をしろがねの蛇となして放てよ
・審判をくだすのは神 青空を映すことなき谷川に入る
・石室にマリアのいない夏であるしめりし森の風は流れて
・これの世の出口逃げ口つぎつぎと枯葉をのせてゆく水の見ゆ

・逃れたき風船二つ天井にはりつきしまま夏季休暇過ぐ
・菓子箱のいろはにおえど錠剤のぎっしりつまっている秋の卓
・むかしむかし海豹だったわたくしの尾鰭がくだく星空の音
・家中の鍵をとりかえ秋ふかき母の眠りのやすくあれかし
・わが知らぬ祈りのように立ちつくす噴水一基雪をかむりて

・アルプスはまぶしく白雪(ゆき)をかむりたりひとりになりにこし書庫の空
・閉館のとき近づける図書館にフィガロは声を昂らすなり
・ハンバーグの玉葱あまき学食に国文科生徒の減りゆく噂
・よく熟れし李(プラム)をたんねんに君がむくエバは忍耐づよき女か
・冷蔵庫にしぼみておりし紅玉のちからの失せしその香りはも

・青草の茂みのなかに消えゆきしあれはマリア・ザンバコの蛇
・〈大き魚の口よりこぼれる小さき魚〉おまえはどんなふうに生きたい
・窓という窓より朝をとりいれて労働ということがはじまる
・夜の水に花梨はにおう産むためにわれは生まれてこしにあらずや
・金目鯛のかぶとこわしていたる箸戦争もいつかおわりましょうか

・軍用犬が巡回をする時間なりブーゲンビリアのこわき花びら
・リストラのはじまるというキャンパスの森ふかく冬の夕日は沈む
・非常勤講師おおかた辞めしキャンパスの木の間をふかれゆきし白雪
・昨日よりすこし前寄りに駐めたのか 車が光る燕がひかる
・明け方のガソリンスタンドたとうれば母胎のような明るさに浮く

・われが今朝入りたる書庫に輪郭を青くひからせ蝶は死にいき
・垣根なす一位は朱き実をもてりしあわせはひとを排除してゆく
・人間の声もつことを許されぬ楓がのぞく二人の昼餉
・熱をもつ夜のファックス紙産むことを忘れていたる体がいたむ

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