宮柊二の歌集『忘瓦亭の歌』を読了。目に留まった歌を引いておきます。
・苦しみのおもかげ殘し目を瞑る人の瞼をわが撫でさする
・登り路(ぢ)に去年の薄の茎を折るみ骨挟まん箸となすべく
・戰爭を深く憎みて憎むまでに知る恐れより語らずわれは
・碑(いしぶみ)となれる遺詠の寫眞をば机に置きて晝に夜に見る
・話盡(つ)きて歸ると下りし玄關にまた一時間ほど語りたる人
・木の下の夕まぐれどき雪のふる幻覺ありて病む目に向ふ
・花踏みて内の憤(いかり)を鎮めんとをりたる朝やえごの木の下
・雨來んとする靜けさやペンを離ししばし體の痛みを宥む
・晝間よりベッドに臥せる者のため慰めありて雀啼くこゑ
・溢れつぐ沈默があり聲のなき饒舌がありストーブの炎(ひ)に
・みどり子は瑞⿒生えそめ折々に小さき己が唇を曲ぐ
・分きがたき醫師の言葉や人生の旅の懐(おも)ひに山鳩を聞く
・躰の痛み耐(こら)へ果(おほ)せる一日の跡を考へ考へて眠る
・淚出て讀みしものより顏上げぬ老に移れる心のしるし
・老いてなほ訴へたきこと我にあり亡き父母の今宵おもほる
・病みて今宵とほく戰ふ國を想ふヨルダンの谷シナイの砂漠
・讀み了へて遥かに偲び辿りゆくガリラヤすなはちティベリア湖のほとり
・今日ひとひ體痛みてつらかりき交響樂「英雄」流る
・月々の醫療費いかにつくるのか思ひつつ服(の)む催眠劑を
・藥また變りし因(もと)をさまざまに詮索し想像し懈(たゆ)し心は
・ののしれば子は泣きて去り貧しかる部屋の机に獨りゐし夢
・肯(うべな)ひて生くるならねど毫釐(かうりん)の末に寂寥たるのみ我は
・ものを讀みものを聞くとき老いにしや不可稱量(ふかしようりやう)の感情うごく
・口締めて眼窩の奥に母なれど生去りしものの瞑(と)づる瞼(まなぶた)
・みづからに藥つめたく針刺すも覺え馴れつつ十一月日々
・友なれば見舞ひみじかく封じ呉れぬ老欅木(おいけやきぎ)の幹太の寫眞(しやしん)
・採血の濟みたる耳を抑へ戾る二十年斯く切られの柊二
・良寛が詩にのこしたる晩歳(いりまへ)の感懷(おもひ)偲ばせ雪止まぬ夜ぞ
・蒸しタオル目より離してうづたかき友の歌稿にふたたび向ふ
・若き日の心のごとし光りつつ風の鬩(せめ)ぎに牡丹折れたり
・單純に單純に歌を作(な)さんとしどろどろとせる心を鎮む
・試步者わが一人し來れば春の日の舗裝のみちに蟇轢かれをり
・いさぎよくもの言ふ君と聞く側に默(もだ)して徐々に喜びのある
・人生は十のうちなる九つが歎きと言ひつ老いし陸游(りくいう)
・師イエズス修道女會の朝の鐘木群(こむら)を縫ひて坂の上より
・君が縒(よ)りて送り給ひし紙撚(かみより)を我は嘆きて幾たび詠みし
・國東(くにさき)の邊土(へんど)に住めば上り得ず會へず果つかと嘆きましにき
・蓄音機田に持ちて來て鳴らし呉れき我ら歸還兵の列車の窓に
・コスモスの仕事仕上げて安けしと宣りてみ意識濁りゆきしと
・武蔵野の紅葉ふかみて就中(なかんづく)端山(はやま)の欅いろ暖かし
・つくたびに逸れゆく赤き鞠を追ふ幼子二歳鞠つきそめて
・この日にも光る針もて注射すと妻こそ迫れ吾が痛初(いたみぞ)め
・衰へし手力(たぢから)をしも嘆きつつ朝湯に絞る濡れ手拭(てぬぐひ)を
・散り層(かさ)む落葉は妻に掃かしめず出でて折々ひとり見むため
・厨にて働く老やきぞ逝きし母の形見を羽織りゐて妻
・癒ゆべかる年とぞ思ふ新手帳二册を側(わき)にわが懐手
・うた一つうたひ終りて逃れしか幼子のこゑ受話器に入らず
・剃刀を持つ手痛むに齶のひげ鼻下のひげ伸びのままなる
・いぶせかる不精の髯を褒めくれてにこにことをり友と友の妻
・唇を反らせば自づと見えてくる鼻髯齶髯剃らずに置くか
・髯面を幼き孫がまじまじと見上げてゐしがべそかきそめぬ
・ウヰスキーを墓にも注ぎ吾も飮み春日うすづく頃とはなりぬ
・さまざまに人は言ふとも宮シュウジの鬚にしたくて理髪鋪(りはつほ)に來ぬ
・夜に呼べば懈(たゆ)げに立ちて寄りて來(き)ぬ人の愛撫に狎れざる犬か
・梅雨の夜の居間の片隅ねそべれる犬は起たずて目を上ぐるのみ
・未明(まだき)より歌がたりして夜半をまだ飽き足らはぬかなほ論(あげつら)ふ
・いかなる喜びを負ふ紅白の薔薇なるか網棚に載る
・網棚に忘られ搖るる薔薇のごと我老いたれば貪(むさぼ)らずあらん
・いささかの空言(そらごと)まじる若き日のこの歌ながらなほ執着す
・校了となしたる歌に文法の間違一つ混(まじ)れるあはれ
・耳朶ゆ一時間隔(お)き五囘(ごくわい)ほど採血さるる難儀の日なり
・酒飮みしこと隱しつつ醫師のいふ血糖檢査の診を聞きをり
・選歌すとベッドに坐り勵みゆく雷音ふかき夜半一時より
・痛み増す手首なだめて曉に始めし選歌長く續(つづ)かず
・明日逝かん境涯のきて何思ふまでにて吾の想像止みぬ
・疼ききて痛む手首を左掌(ひだりて)に摑みて休むあはれなり老ゆ
・もの書きに妻がもつとも影響を與ふと言ひし正宗白鳥
・雨つつむあかつきに覺め糖缺(たうけつ)の震ひ來居りて據所(よりど)なし今
・いま不意に山西省のかの藜(あかざ)莖(くき)ありありと見ゆるは何故か
・轟々の管弦の音テレビにすカール・ベームのモーツァルト「ジュピター」
・家つつむ雨音を聞き目覺めをり行方も分かぬこの流離感
・溜りゆく仕事おもへど痛む肩痛む手首を宥めつつ臥す
・戰地より還りこしより先生の墓參をわれは缺(か)かさざりしが
・再びをベッドに横臥し空耳(からみみ)に蟲が音(ね)を聞く忌の日ぞ今日は
・堆(うづたか)き葉書の山ぞ貧に病み病めばそれゆゑ勵まねばならぬ
・われに來よと言ふにやあらん吠えやまぬ犬を撫づべくペン置きて立つ
・あかつきの三時の汽笛常のごと聞こえて衾(ふすま)を肩まで被(かづ)く
・古人(ふるびと)の歌を釋きつつ今風に感傷しゆく己を叱る
・灰皿のこの堆(うづたか)き吸殻に勵(はげ)みの跡のあるを憐れめ
・脂汗ながれて手足をののきつ糖缺乏(たうけつばふ)の症狀始まる
・滯ほる雲の如かり下りゐるエレベーターに心(しん)疲れつつ
・地下鐡を乗換へんとし走るとき思ひ浮かびて遠の穉子(をさなご)
・持ち越しの仕事が今も淡々(あはあは)とわだかまりあり心の隅に
・髭先が口中に入ることなども妻には告げず飯食みてゐる
・いま一息いま一息の續(つづ)かずて時の消化に止むなく任す
・やや醉ひて前川夫人髯剃れと詰寄りましき肯(がへ)んじさりき
・戰後いま慷概もなし日月(ひつき)老いわれまた老いて懶(らい)のみに住む
・部屋ごもり低血糖に耐へをれば眼先(まなさき)くらみ體墜ちゆく
・菓子二箇(ふたつ)柿二片(ふたひら)をむさぼりて震ひを靜め客に會はんとす
・君の言葉つつましけれど隱るなし生のいだける若さの驕り
・締切の選歌を急ぐ床中(しゃうちゆう)の朝のからだに震ひは兆す
・わが視力いたく衰ふなどとしも本を購はざる辯疏(べんそ)になしつ
・常にわが心にぞある先生の幮(かや)吊らしむる最後(いやはて)の歌
*「幮」のつくりは厨です。
・子が呉れんものを測りて待つ心六十四歳の老(おい)の吝蟲(しはむし)
・發音をうばはれし吾『オーケストラの少女』をテレビに見つつ淚す
・弦の音悲しく低くしばし鳴りカールベームの「運命」すすむ
・誰人(たれびと)の境涯なりとも羨まぬ安き心になりたしわれは
・この夜ふけ思ひ出でては良寛の托鉢の詩をひとつ捜しぬ
・葉の中の春蘭の芽を探りつつほとほと病みを忘れんとする
・手をのべて近寄りゆくに白晝(はくちう)の幻のごともチャップリン消ゆ
・夜々にする耳の空鳴りベッドより己れ立ち上(あが)り頭をば振る
・わが父やよはひをいまだ生きをりてその抱きけんなげきおもほゆ
・こぞの秋に仕舞忌(しまひき)をさめ年立てば戰死者君をもつとも思ふ
・會はざりし母の父の名この宵はゆくりなくして思ひぞ出づる
・理由なく小さき鐵(かね)の紙挟み手草(たぐさ)にしをり慰まなくに
・腦血栓藝術院賞ともに得し禍福(くわふく)あざなふ年は逝きたり
・目覺むれば露光るなりわが庭の露(つゆ)團々(だんだん)の中に死にたし
・病み病みて用ふるはなき小机の抽出しの引手(ひきて)しづまりかへる
・秋の蚊の翅よわよわと書齋兼この病室に殘り飛ぶ音
・ドラム罐は炎を立てて反古紙を燒きゆくゆふべ槿花(むくげ)終りぬ
・湖に入りて凍死をせし鹿のいたくあはれの物語聞く
・いたつきの體を浸す山の湯の青々として溢れんとする
・苦しみのおもかげ殘し目を瞑る人の瞼をわが撫でさする
・登り路(ぢ)に去年の薄の茎を折るみ骨挟まん箸となすべく
・戰爭を深く憎みて憎むまでに知る恐れより語らずわれは
・碑(いしぶみ)となれる遺詠の寫眞をば机に置きて晝に夜に見る
・話盡(つ)きて歸ると下りし玄關にまた一時間ほど語りたる人
・木の下の夕まぐれどき雪のふる幻覺ありて病む目に向ふ
・花踏みて内の憤(いかり)を鎮めんとをりたる朝やえごの木の下
・雨來んとする靜けさやペンを離ししばし體の痛みを宥む
・晝間よりベッドに臥せる者のため慰めありて雀啼くこゑ
・溢れつぐ沈默があり聲のなき饒舌がありストーブの炎(ひ)に
・みどり子は瑞⿒生えそめ折々に小さき己が唇を曲ぐ
・分きがたき醫師の言葉や人生の旅の懐(おも)ひに山鳩を聞く
・躰の痛み耐(こら)へ果(おほ)せる一日の跡を考へ考へて眠る
・淚出て讀みしものより顏上げぬ老に移れる心のしるし
・老いてなほ訴へたきこと我にあり亡き父母の今宵おもほる
・病みて今宵とほく戰ふ國を想ふヨルダンの谷シナイの砂漠
・讀み了へて遥かに偲び辿りゆくガリラヤすなはちティベリア湖のほとり
・今日ひとひ體痛みてつらかりき交響樂「英雄」流る
・月々の醫療費いかにつくるのか思ひつつ服(の)む催眠劑を
・藥また變りし因(もと)をさまざまに詮索し想像し懈(たゆ)し心は
・ののしれば子は泣きて去り貧しかる部屋の机に獨りゐし夢
・肯(うべな)ひて生くるならねど毫釐(かうりん)の末に寂寥たるのみ我は
・ものを讀みものを聞くとき老いにしや不可稱量(ふかしようりやう)の感情うごく
・口締めて眼窩の奥に母なれど生去りしものの瞑(と)づる瞼(まなぶた)
・みづからに藥つめたく針刺すも覺え馴れつつ十一月日々
・友なれば見舞ひみじかく封じ呉れぬ老欅木(おいけやきぎ)の幹太の寫眞(しやしん)
・採血の濟みたる耳を抑へ戾る二十年斯く切られの柊二
・良寛が詩にのこしたる晩歳(いりまへ)の感懷(おもひ)偲ばせ雪止まぬ夜ぞ
・蒸しタオル目より離してうづたかき友の歌稿にふたたび向ふ
・若き日の心のごとし光りつつ風の鬩(せめ)ぎに牡丹折れたり
・單純に單純に歌を作(な)さんとしどろどろとせる心を鎮む
・試步者わが一人し來れば春の日の舗裝のみちに蟇轢かれをり
・いさぎよくもの言ふ君と聞く側に默(もだ)して徐々に喜びのある
・人生は十のうちなる九つが歎きと言ひつ老いし陸游(りくいう)
・師イエズス修道女會の朝の鐘木群(こむら)を縫ひて坂の上より
・君が縒(よ)りて送り給ひし紙撚(かみより)を我は嘆きて幾たび詠みし
・國東(くにさき)の邊土(へんど)に住めば上り得ず會へず果つかと嘆きましにき
・蓄音機田に持ちて來て鳴らし呉れき我ら歸還兵の列車の窓に
・コスモスの仕事仕上げて安けしと宣りてみ意識濁りゆきしと
・武蔵野の紅葉ふかみて就中(なかんづく)端山(はやま)の欅いろ暖かし
・つくたびに逸れゆく赤き鞠を追ふ幼子二歳鞠つきそめて
・この日にも光る針もて注射すと妻こそ迫れ吾が痛初(いたみぞ)め
・衰へし手力(たぢから)をしも嘆きつつ朝湯に絞る濡れ手拭(てぬぐひ)を
・散り層(かさ)む落葉は妻に掃かしめず出でて折々ひとり見むため
・厨にて働く老やきぞ逝きし母の形見を羽織りゐて妻
・癒ゆべかる年とぞ思ふ新手帳二册を側(わき)にわが懐手
・うた一つうたひ終りて逃れしか幼子のこゑ受話器に入らず
・剃刀を持つ手痛むに齶のひげ鼻下のひげ伸びのままなる
・いぶせかる不精の髯を褒めくれてにこにことをり友と友の妻
・唇を反らせば自づと見えてくる鼻髯齶髯剃らずに置くか
・髯面を幼き孫がまじまじと見上げてゐしがべそかきそめぬ
・ウヰスキーを墓にも注ぎ吾も飮み春日うすづく頃とはなりぬ
・さまざまに人は言ふとも宮シュウジの鬚にしたくて理髪鋪(りはつほ)に來ぬ
・夜に呼べば懈(たゆ)げに立ちて寄りて來(き)ぬ人の愛撫に狎れざる犬か
・梅雨の夜の居間の片隅ねそべれる犬は起たずて目を上ぐるのみ
・未明(まだき)より歌がたりして夜半をまだ飽き足らはぬかなほ論(あげつら)ふ
・いかなる喜びを負ふ紅白の薔薇なるか網棚に載る
・網棚に忘られ搖るる薔薇のごと我老いたれば貪(むさぼ)らずあらん
・いささかの空言(そらごと)まじる若き日のこの歌ながらなほ執着す
・校了となしたる歌に文法の間違一つ混(まじ)れるあはれ
・耳朶ゆ一時間隔(お)き五囘(ごくわい)ほど採血さるる難儀の日なり
・酒飮みしこと隱しつつ醫師のいふ血糖檢査の診を聞きをり
・選歌すとベッドに坐り勵みゆく雷音ふかき夜半一時より
・痛み増す手首なだめて曉に始めし選歌長く續(つづ)かず
・明日逝かん境涯のきて何思ふまでにて吾の想像止みぬ
・疼ききて痛む手首を左掌(ひだりて)に摑みて休むあはれなり老ゆ
・もの書きに妻がもつとも影響を與ふと言ひし正宗白鳥
・雨つつむあかつきに覺め糖缺(たうけつ)の震ひ來居りて據所(よりど)なし今
・いま不意に山西省のかの藜(あかざ)莖(くき)ありありと見ゆるは何故か
・轟々の管弦の音テレビにすカール・ベームのモーツァルト「ジュピター」
・家つつむ雨音を聞き目覺めをり行方も分かぬこの流離感
・溜りゆく仕事おもへど痛む肩痛む手首を宥めつつ臥す
・戰地より還りこしより先生の墓參をわれは缺(か)かさざりしが
・再びをベッドに横臥し空耳(からみみ)に蟲が音(ね)を聞く忌の日ぞ今日は
・堆(うづたか)き葉書の山ぞ貧に病み病めばそれゆゑ勵まねばならぬ
・われに來よと言ふにやあらん吠えやまぬ犬を撫づべくペン置きて立つ
・あかつきの三時の汽笛常のごと聞こえて衾(ふすま)を肩まで被(かづ)く
・古人(ふるびと)の歌を釋きつつ今風に感傷しゆく己を叱る
・灰皿のこの堆(うづたか)き吸殻に勵(はげ)みの跡のあるを憐れめ
・脂汗ながれて手足をののきつ糖缺乏(たうけつばふ)の症狀始まる
・滯ほる雲の如かり下りゐるエレベーターに心(しん)疲れつつ
・地下鐡を乗換へんとし走るとき思ひ浮かびて遠の穉子(をさなご)
・持ち越しの仕事が今も淡々(あはあは)とわだかまりあり心の隅に
・髭先が口中に入ることなども妻には告げず飯食みてゐる
・いま一息いま一息の續(つづ)かずて時の消化に止むなく任す
・やや醉ひて前川夫人髯剃れと詰寄りましき肯(がへ)んじさりき
・戰後いま慷概もなし日月(ひつき)老いわれまた老いて懶(らい)のみに住む
・部屋ごもり低血糖に耐へをれば眼先(まなさき)くらみ體墜ちゆく
・菓子二箇(ふたつ)柿二片(ふたひら)をむさぼりて震ひを靜め客に會はんとす
・君の言葉つつましけれど隱るなし生のいだける若さの驕り
・締切の選歌を急ぐ床中(しゃうちゆう)の朝のからだに震ひは兆す
・わが視力いたく衰ふなどとしも本を購はざる辯疏(べんそ)になしつ
・常にわが心にぞある先生の幮(かや)吊らしむる最後(いやはて)の歌
*「幮」のつくりは厨です。
・子が呉れんものを測りて待つ心六十四歳の老(おい)の吝蟲(しはむし)
・發音をうばはれし吾『オーケストラの少女』をテレビに見つつ淚す
・弦の音悲しく低くしばし鳴りカールベームの「運命」すすむ
・誰人(たれびと)の境涯なりとも羨まぬ安き心になりたしわれは
・この夜ふけ思ひ出でては良寛の托鉢の詩をひとつ捜しぬ
・葉の中の春蘭の芽を探りつつほとほと病みを忘れんとする
・手をのべて近寄りゆくに白晝(はくちう)の幻のごともチャップリン消ゆ
・夜々にする耳の空鳴りベッドより己れ立ち上(あが)り頭をば振る
・わが父やよはひをいまだ生きをりてその抱きけんなげきおもほゆ
・こぞの秋に仕舞忌(しまひき)をさめ年立てば戰死者君をもつとも思ふ
・會はざりし母の父の名この宵はゆくりなくして思ひぞ出づる
・理由なく小さき鐵(かね)の紙挟み手草(たぐさ)にしをり慰まなくに
・腦血栓藝術院賞ともに得し禍福(くわふく)あざなふ年は逝きたり
・目覺むれば露光るなりわが庭の露(つゆ)團々(だんだん)の中に死にたし
・病み病みて用ふるはなき小机の抽出しの引手(ひきて)しづまりかへる
・秋の蚊の翅よわよわと書齋兼この病室に殘り飛ぶ音
・ドラム罐は炎を立てて反古紙を燒きゆくゆふべ槿花(むくげ)終りぬ
・湖に入りて凍死をせし鹿のいたくあはれの物語聞く
・いたつきの體を浸す山の湯の青々として溢れんとする