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『印度の果実』より

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大西民子の歌集『印度の果実』を読了。目に留まった歌を引いておきます。


・駅前の放置自転車神々に見はなされたる病のごとし
・妻を得てユトレヒトに今は住むといふユトレヒトにも雨降るらむか
・二つめの目ざまし時計鳴り出でてとぎれてしまふ夢ばかりなる
・いづくまで行く魂か流木のかたちに流れつくことのあり
・芥ともあらずときをりひるがへり流るるもののふと反照す

・わだかまる藻のかたまりに波は来て力を試すさまに引き摺る
・若き子を死なしめし人のおもむろに立ち直る日々を共に働く
・戻り得ぬ家かと思ふ入院の車のバックミラーに見つつ
・運ばれて来てなす朝餉体温よりやや温かし流動食は
・病室にわれのみとなるときのあり滝なして降る暮れがたの雨

・霧のなかに斜塔のごとき見えながら眠りゆきたり点滴終へて
・緊急を告げて呼ばれし医師ならむ雑音のみの放送終はる
・病室の片隅に置くハイヒール癒えて履く日のいつとも知れず
・獄中のくらしも知らずたぐへつつ嵐の夜半をながく醒めゐる
・みまかりて空きたる部屋に病む人の間(ま)なく入り来て点滴を受く

・薔薇あまた挿せる病室持ちて来し小さき辞書は開くことなし
・向う側は小児病棟子どもらのつむり幾つも並ぶことあり
・あやつりの糸のもつれて立ち得ずと病みつつ見たる夢のきれぎれ
・二十日ほどを苦しみてわれの去りゆくにいのちのきはを病む人多き
・病室は六畳ほどか出で入りに薔薇の匂ひの乱され易し

・隣室の声意味なしてはげしきはわが耳冴ゆるたそがれのころ
・誰がためのいのちと問ひてはかなきに手術の傷の日ごと癒えゆく
・渋滞の車さへ今こころよく退院の身を運ばれむとす
・病院を出づれば秋の生活(くらし)あり藁を焚く香の道になづさふ
・くくり椿運ばれゆけり癒えし身に通ひ慣れたる道も新し

・降り出づるけはひ言ひつつ別れ来ぬ互(かたみ)の傘を確かめあひて
・全開の音量といふも知らぬまま雨の夜更けに聴くモーツアルト
・いくひらの椎茸を水にもどしおきわれにしづかに年暮れむとす
・暖房の部屋に置く供華たちまちに心やつるるさまに衰ふ
・手の届く範囲にものを置く習ひ乱丁の辞書もかたはらに置く

・B4の紙片一枚回付され組織まるごとゆさぶる日あり
・狐ほどに痩せたる顔を持ち歩く夢ながながと見て夜の明けぬ
・やめてゆく職場に在れば日毎日毎遠景となる書類の束も
・暇々(いとまいとま)に物縫ふならひいつとなく失せて買ひおく更紗も古りぬ
・うたかたの職場におのれ尽くし来ぬ指のあはひを風の抜けゆく

・しろじろとどこからも見ゆる明るさに喪の家の灯の夜すがら点る
・みひらかば大きなる目を逝きまして左合はせの白衣もやさし
・妹の在らば停年まで働かむかかる思ひも痛みを誘ふ
・定期券を忘るることなどのなくてすむたつきのあるを知らで過ぎ来し
・有楽町へ着くまで長し独りごとを言ひやまぬ人と隣りあはせて

・あやとりをしてゐし夢にたれならむもうひとりゐし幼な子の影
・何のかたちにも折り得むにひろげたる紙のまま置く思ひと言はむ
・父母の名も妹の名も消されたる戸籍謄本見つつすべなし
・ときのまに日ざし洩れ来て喪の花の銀はまぶしく光を返す
・しばらくをかけなづむ鍵の音のして隣の家のたれか出でゆく

・死のあとに残されむもの度の違ふ眼鏡の幾つ思ふことあり
・雨季のくる前には再び痛まむとわが持つ傷を人の気づかふ
・食事のあとゆるぶ体のうとましくながく坐れり何なすとなく
・降り出でし雨にそのまま別れ来て憶測ばかり胸にひろがる
・切開の痕のをりふし引き吊るは魂に持つ傷のごとしも

・綿虫の芯ほのじろく宙に浮き消え入るやうに沈みてゆけり
・死のときはたれもひとりよまひまひは一粒のまま日の暮れむとす
・安否さへ問ふよしもなき人ながら苦しみのみを負ふにもあらぬ
・金輪際かかる願ひは告げ得ぬに思ひゐて血の濃くなるごとし
・何を待ちてゐるわれならむ地球儀はひと回りしてまた海の青

・工事場に大き土管の積まれゐて吸ひ込む如しなべての音を
・電話のベル鳴りつぎゐるはどの家かよしなき耳を持ちて歩めり
・天気図の等圧線を見てゐしが不意にわが持つ渦とかさなる
・せぐくまり反故燃しをれば降り出でてドラマのなかに降る雪に似る
・バスに見て過ぐる校門偶像の如くに崩れし雪像を置く

・夕闇の畑に人の影うごきカタコンベなど掘るにあらずや
・つまづきて五体ほどけしときのまに野火の匂ひにとりかこまれぬ
・岬幾つ越えて届くやこの世ならぬ音に午報のサイレン聞こゆ
・いつまでも嗄れゐる声をあはれまれ電話を切ればまた風の音
・踏絵踏む足の次々あらはるる夢醒めて寒しわれのあなうら

・旦夕(たんせき)に迫れりと知るみいのちのとどめもあへず雨降りしきる
・さわだてるけはひ届かぬはろけさに椋鳥のむれはまた森へ落つ
・化(け)のものとならむよしなきことわりを知りつつ境のあらぬ思ひす
・魚(うを)の血のひとすぢ水に流れ出でわが身のどこか引き絞らるる
・そのままを告げよとならば声あげてきゆんと泣きたき思ひと言はむ

・霊柩車の木蔭にながくありにしが夢に見ることもうつつを超えず
・残さるることも幾たび夕立に袖濡らし来し喪服を吊るす
・地上にていまだなすべきことあらむ戻り来りし思ひに坐る
・うつむきて印度の果実むきをればやいばはつねにわが胸に向く
・敗れたる牛は如何にか映像は勝てる牡牛をしばらく見しむ

・終りまで聞きてよりものを言ふ習ひながき勤めに培ひて来し
・殺気のごときひとすぢ走りすぎしのみすぐコーヒーは運ばれて来(き)ぬ
・霊柩車を先立ててゆくバスのなか不意に時刻を問ひし人あり
・人の声やいばをなすと聞きをれば真実胸の辺(へ)の痛みくる
・言い出づることにあらねど思ひゐてわが切つ先のひらめきはじむ

・音程を次第に上げて畦にゐる群れの鴉の一羽のみ啼く
・襟もとの寒き思ひに見返ればみの虫は風に回りてゐたり
・雨をんななるを思へば寒梅を見む約束も咎のごとしも
・行き違ひになりにしのみと知るまでにまた重ねたる歳月ありき
・色の無き葡萄摘みゐる夢なりき色無き房は手に重かりき

・遠くまでものの見ゆる日見えざる日視界くらめて今朝は雪降る
・雪の日の逆行のなかおのづから胸に手を当つマリアの像は
・壁の絵の思はぬ隅に眼(まなこ)あり見られてあらむ幾つもの目に
・いつまでもバスの来ざれば手袋のままに手話して少女らのをり
・洗ひたる皿のたちまち冷えゆくは死にたる人の冷えゆくに似る

・くれがたに群れとぶ見ればグレナダへ僧になりにゆく鴉ならずや
・思はれてゐるやうにしか振舞へずなまの感情はをりをりきざす
・うるし塗りの細き筆などありにしが身のほとりよりさまざまに失(う)す
・灯の暗き寄宿舎の冬伏せ字解くをたのしみとしたる少女期ありき
・この道をゆくほかはなくカーブミラーの映す枯れ野に近づきて行く

・雨の夜は眠れぬわれとあきらむる雨の記憶はおほよそ暗し
・煮えくり返る思ひなりしが一夜明けてたひらぎてゐるわれに愕(おどろ)く
・五百枚の原稿用紙買ひ持ちていまだ紙なる重さを運ぶ

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