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永井陽子

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『永井陽子全歌集』を読了。目に留まった歌を引いておきます。


『葦牙』
・暖冬の雨 偽善者は顔をそむける
・水鉄砲は造物主への子供の謀反
・われら神のまま子 額に雪が舞う
・神もまた夢想癖持つ 帆が見える

・偶像がこわれたのです いくたびも訪ねた町の画集をたたむ
・使われなかった方眼紙のように歩道 だれもついてくるな
・神とあなたの間に私がいるという まわれまわれよ回転木馬
・指先に息吹きかければ遠くブランコのきしる音する聖夜
・破かれるかもしれない葉書潮風に過去への切手きっちりと貼る

・幼年時代の記憶をたどれば野の果てで幾度も同じ葬列に会う
・手の中で透明になってしまうまで 秋 弄ぶ君のイニシャル
・宗教は持たぬ・若さも信じぬと叫ぶ 遠くの双樹に飛雪
・どんな言葉も道具にすぎぬくやしさの梯子まっすぐ天まで掛けよ
・地の底にどこへも行けぬ鬼がいてくやしまぎれに歌う賛美歌

・投げた石の速さで返りくる痛み意地けたこころ晩夏にさらす
・たましいはうすぐれの街に切る十字すりぬけながら さやげ群竹
・問えばまた降るあめの下生れてきてこのうなばらに試す鎮魂
・地底より巡礼は来て過ぎゆきぬちちははの骨かすかに鳴る夜


『なよたけ拾遺』
・三界にかがやく羽根となるまでを飛べたをやかに君のオーボエ
・田に遊び野草に遊ぶ神の背が父に似てゐる やがてさみだれ
・傷をもつ腕といへどほうほうと樵来る道春はるばかり
・組みかへてまた天をさすその指の稚き血すぢをかなしみ伏せり
・なづないろした布一枚を買ふことが夢なり天使地にひさぎつつ

・かたくなに人語をこばみ来し耳がいま早暁のみどりに痛む
・みそぎとはこころひそかにそむくこと素足を濡らし朝のつゆ踏む
・神のこゑほの聞きしかと出でゆく朝 遮断機は空よりおりる
・静脈のなか星つぶて飛ぶ山の木のさはだち胸にねむる石切り
・けさたちし秋風の野に透明なメトロノームはひかるとおもふ

・それぞれのおもひはのべず父と母ゆふぐれに焚く火がうつくしき
・うつむきてひとつの愛を告ぐるときそのレモンほどうすい気管支
・血がにじむまで指笛を 少年のみづらにみづはしたたりやまぬ
・人の血のいろかとおもふゆふやけの語彙しづめつつわたるかりがね
・何ゆゑに人と生れしや冬の胎内にゆふばえのごとき拒絶をはらみ


『樟の木のうた』
・夭かりしおのれ自身をやうやくんびゆるし開(あ)きゆく輪唱の輪が
・暮れなづむ駅舎の真上あれは父が死の辺に見たるゆふがほの天
・こころのかぎり奏づればやがてこのままに死に至らむか秋に刷く雲
・秋から冬へ窓のガラスも杳(くら)みゆきとほく聞こえてくる移調奏
・橋上を過ぐるこころぞ解かれよとわが影を先に歩ませてやる

・ほろびゆきし書体をおもひ海をおもひ見てをりぬただ慕といふ文字を
・立冬の風が砥をなす空の下あらがふものは磨かるるなり
・地下より出づる階段につと月が射しブックカバーにぎんいろのつばさ
・秋冷の都市に通夜あり棺に触れそのまま持ちて来たりし月光(ひかり)
・ふかくふかく吸ふ秋の彩(いろ)肺胞はいまあざやかな陽のステンドグラス

・がうがうとさくら花びらうづを巻き馬蹄形なす春のおほぞら
・発熱する君かねむれぬ雨の夜に金魚のにほひふとたちきたる
・べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊
・天への梯子さがしあぐねしをさな児にひと刷けの藍くれたり雲は
・病棟にひとのからだの冷ゆる刻ヒマラヤ杉は育ちゆくなり

・秋の野のかそけき楽や人知れずをなもみめなもみ明(あか)き萩の実
・人よ、たやすく呼ぶなかばふなさむざむと地のゆふあかね歩みきるのみ
・月明の萩の野末を面相筆がしなやかにとほく歩みゆきたる
・遊楽にとほく月日は経たりもみぢする空にひとすぢの白髪を見き
・蜘蛛の張る糸たんぽぽの絮毛おのもおのもちひさきものは空に光れる

・ふりかへりまたふりかへりひとすぢのかなしみのなかにおりてゆく夜
・冬の掌上ほのかに明かる語彙がありいづれの星に咲くれんげさう


『ふしぎな楽器』
・春雷が今し過ぎたる路上より起ちしなやかにf(フォルテ)は歩む
・譜を抜けて春のひかりを浴びながら歩むf(フォルテ)よ人体のごとし
・春秋人を待たずといへど歩み来る長身はいまたをやかなf(フォルテ)
・ぽこぽこと真昼の木魚終日をやはらかなからたちの棘へ降る雨
・ここはアヴィニョンの橋にあらねど♩♩♩曇り日のした百合もて通る

・曇天にかつこかつこと鳴る羯鼓(かつこ)たれにか逢はむたれにか逢はむ
・都市は正午のみじかき休止澄明な沓音がそらを渡りゆきたり
・この世なる不思議な楽器月光に鳴り出づるよ人の器官すべてが
・月光はねむり入るきはにわたくしの関節をすべてはづしてしまふ
・立つたままダビデの像がねむりたれば歩きはじめるロビーのゴムの木

・バラライカロシア料理の店にあるそのことをしもさびしくおもふ
・どぶねずみされど一夜は盛装の男女にて聴くドヴォルザークを
・今宵わたしはただ一挺のチェロとなり月の路上によこたはりたし
・「風来坊」に入りぎはわたくしのみが聞く初冬の風のこゑ ふ・う・ら・い・ぼ・う
・高熱のまどろみのそことろとろとかたちうしなひゆくヴァイオリン

・定命の泥のごときがわが身より流れしづかな方丈となる
・明朝体は美しければしくしくとながめてひと日はかどりがたし
・丈たかき斥候(ものみ)のやうな貌(かほ)をしてf(フォルテ)が杉に凭れてゐるぞ


『モーツァルトの電話帳』
・あまでうすあまでうすとぞ打ち鳴らす豊後の秋のおほ瑠璃の鐘
・鬼のごとしと定家が言へる己が文字世俗を記して折れ曲がるなり
・からーんと晴れた空にひばりのこゑもせずねむたさうな遮断機
・きっぱりと人に伝へてかなしみは折半せよと風が吹くなり
・十人殺せば深まるみどり百人殺せばしたたるみどり安土のみどり

・するすると「の」の字がのびて宙天をさがりくるさまゆめみて候
・セザンヌのリンゴや瓶や玉葱も息をしてゐるしづかな聖夜
・どどどどと風が吹く日の塔頭(たつちゆう)にカケスがうたふたけやぶやけた
・どぶねずみどもが酔ふたるいきほひで師走の街に言ふ一揆論
・土曜日はガラスの中のペンギンを見にゆくみんな帽子をかぶり

・軒先へ法師蝉来てをしいをしいほんにをしいとつらつら鳴けり
・のこのことファゴットの音歩みゆきまたかへりくる二百十日を
・ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり
・碧天(へきてん)を震撼せしめ 信長の罵詈雑言の一オクターブ
・ままよ ひとり帽子も靴もぶかぶかと〈赤いはりねずみ〉へ行くブラームス

・みのむしみのむし高き天より垂れさがり揺れてゐるこの国の中庸
・みみづくのやうなものがほうと息吐く楽屋口のくらがり
・明朝の活字しくしく見てをれば歩きはじめる〈葡萄耳人〉(ぽるとがるじん)
・めぐり来る閏(うるふ)の年のことなどを語尾やはらかにひとは語らひ
・ゆふぞらに風の太郎がひろげゆくあかがねいろの大風呂敷は

・夜ごと背をまるめて辞書をひくうちに本当に梟になってしまふぞ
・落書きは空にするべし少年が素手もて描く少女の名前
・ロビーにも射す月あかり立ったままダビデの像は目を閉ぢねむる
・わづかなよろこびあれば他人を責めがたし今日あさがほがはじめて咲けり
・嗤ひをるあの白雲め天と地のつっかひ棒をはづしてしまへ

・輪をなせる記憶の底ひほそほそと雨に濡れゐるやぐるまさうは
・亥(ゐ)の刻はまつりのをはり 天上へ雲のうづしほ逆巻きかへす
・建築はこほれる音楽などといふこと東洋にふさはしからず


『てまり唄』
・つくねんと日暮れの部屋に座りをり過去世のひとのごとき母親
・しやきしやき喰む秋茗荷職業を持つゆゑににがき日もありしこと
・人ひとりんび逢はぬがむげにかなしくて野に放つゆめいろのすいつちよ
・こころねを語らむとする辺にありてあやしき賤の夕顔の花
・すりへらしすりへらしゆく神経の線香花火ほどのあかるさ

・ややありてくもりガラスに息をかけ引目鉤鼻描きはじめぬ
・半濁音取り落としたる文などを書く母がをりひそと梅が香
・さみどりの風がクサタヲクサタヲと吹く日になれば歩まむ母も
・うたうたふふくろふが居て巷間へほうほうほうと散らす夜桜
・婉曲を美とするくにのさくらばなへりくだりつつひらきはじむる

・洋服の裏側はどんな宇宙かと脱ぎ捨てられた背広に触れる
・さりながらさりながらとてくりかへす日常に降る銀の秋雨
・ことことと戸を叩く風 積年のまづしき父母のおもひのやうに
・手を振れば振り返し手をさしのべて触るれば消ゆるひかりのすすき
・「一字下げる」それだけなれど決めがたしたそがれの人生の段落

・仕事上のことにてあれど語らへば今日つややかな言葉の余韻
・丁丁と打たれてのちを打ち返し艶めきてゐる朝のこころぞ
・さりげなく人の弱点におよび入る耳掻きほどのほそさするどさ
・新しき鋏は夜のしじまにてひとを恋ほしみしやきしやきと鳴る
・みのむしが秋のさくらに垂れさがりなうなうなうともの申すなり

・歳月が梳き流したる空の藍書庫より出でてしばらくは見つ
・あさがほがしづかにほどく藍を見き身の丈ほどの範囲を生きて
・糸巻き雲おろしがね雲 母は言ふかなしみいろの雲の名前を
・母とふたり生きてほとほと疲れたれば海のやうなる曇日が好き
・心不調ゆゑにしばらく休みます 雁来る頃の表札に記す

・はつきりともの言うてのちさみしけれ石造りの街あらば行きたし
・ともしびが消えゆくやうにねむること祈りてをりぬ母のかたへに
・苦しみを背に負うものは仰げとぞ空に枝を張るゑんじゆ 鬼の木
・長年の風説に尾も色あせて風見の鶏(とり)はもうねむりたし
・うらを焙りおもてを焙りまたうらを焙ればゆめの色なるするめ

・何を言ふつもりもなけれど見てをればワイシャツの背を風は出入りす
・木の芽流しつばな流しといふ雨の降り方自己のあり方 今日も
・ぽわぽわとうつけた風を吹くからに肩へ触れくる白はなみづき
・ブラインドなかばは開けて人不在 しづかな机の上のしましま
・何を祝すにあらねど川面越えてくるアルトリコーダーのうたごゑ

・ふりそそぐ秋陽のなかに瞑想中のかまきりがゐる大手門前
・終日をみづあめのやうなものまとひ人の辺にありきと記すのみ
・日曜はゆめの領域にて暮らしてのひらなどに書く「のりしろ」と
・初冬まで咲き残りたる萩一枝 一枝ほどの単純がよし
・その端は茫洋としてとめどなき幅広の雲ながれてゆけり

・大鉈をふるふがごとき決断を迫られてゐる冬のいちにち
・しんしんと己がこころを見てをればすきとほりゆく冬至の南瓜
・決めかねて歩みをかへす頭上まで降りてきてゐる雲のだんだら
・山茶花を折らむとするに細枝のしなやかな鞭に打ち返さるる
・病むものがあればながむる往来の電柱もまたさびし寒の日

・わがこころ牛車のごとしと思ひつつごとりごとりと曳き出だすなり
・たましひを奪はれてなほ生き継げる老人がこの朝に鞠つく
・いちまいの雑巾なればわたくしは四つ折りにされてもしかたなし
・大つづら在らばこころを封じ込め十文字にぞくくり置きたし
・死にたくてならぬひと日が暮れてのち手に掬ふ飴色の金魚を

・一行の詩歌の内に身をふるふ一本の木が見えたりこよひ
・とむらひの日は過ぎやがて腐りゆくマスクメロンやたまごや南瓜


『小さなヴァイオリンが欲しくて』
・自転車は陽のしましまを渡りけり街路樹のかげさやかに揺れて
・消息はツバメに聞けと記してより転居通知も出さず過ぎにき
・負けること負ふことされど夏の陽にたちまち乾きゆくTシャツは
・水のやうになることそしてみづからでありながらみづからを消すこと
・棚差しの一冊を抜きためらひてのち買ひ出づる真夏の街へ

・カーテンのむかうに見ゆる夕雲を位牌にも見せたくて夏の日
・くたびれたたましひたちのつばさにも似たるくつした星空に干す
・天袋に押し込められてゐる本が深夜きくきくこゑをたつるよ
・しつとりと夜露にぬれて靴下はつばさのごときものを広ぐる
・嫁ぎたる者天界へ行きし者それぞれが残し置けるがらくた

・さくらばな散りくる門(かど)に信楽のタヌキ一匹見捨ててきたる
・死して行く宙とはいづこ飛行機の大きな銀の腹を見上ぐる
・星ヶ丘越えてゆつくり来るバスを待ちながら聞く吃音鼻音
・〈栗ねずみ〉リスの異名よつやつやと月光に輝(て)る言の葉の実は
・熊手もて星をあつむる夢を見き老いより解かれはなやぐ母と

・責了としたき日常くさぐさのおもひを納めがらくたも捨て
・星崎行といふ名のバスが来る街に住み慣れて春どこへも行かず
・捨てられてわおんわおんと海底に泡吐く木魚夢に見しかな
・墓地に咲くタンポポの数記してのち山鳩色のノートを閉づる
・雑踏にまぎれやうやくやすらげる朱欒(ざぼん)のやうなこころとおもふ

・がらくたもすでになき家の縁側にころがりひかる母の指貫
・胸に指組みねむる癖 たましひのあそびは死へと至るあそびを
・一本のえんぴつをけづるおびえつつおのがこころを削るごとくに
・たれを呼び呼ばるるこゑか人の世は係り結びの法則に似て
・ひと夏を閉ぢて過ごせし耳にのみ初秋の風はきこゆるといふ

・疲れないやうにと告ぐるひくきこゑ聞きてそのまま職場へむかふ
・成りゆきにまかする方が良いこともあると語りしのちのしづけさ
・一冊の本を借りたることのみのえにしにながくかかはりて来し
・屈葬に惹かるることは言はざれどふたつみつよつ咲くももの花
・むかう側にはれんげ畑がひろごると死にゆく母に言ひたる嘘も

・父には父の母には母の子守唄ありしよ杜の樟のみが知る
・グレゴリオ聖歌のみ聴き過ごしたるさすがにながき夏ありしかな
・「あ」と言ひてそののち口を噤みをる少女の前に吾が立ちつくす
・ともかくも家の明かりを全部消す今日のつじつま合はなくてよし
・癪の種拾ひ集めてベランダのプランターにぞ蒔かむとぞおもふ

・ボールペンくるくるまはす近世の瓦礫のごとき歌群を前に
・熱とれぬままに見開くページにはつつみがまへといふ部首がある
・身体の不調を言へばうなづきて青年のごとき掌を額に置く
・カルテには記すことなけむそれぞれの心の内の今日のをどり字
・脈拍が一瞬途切れまた打つを君に語れぬ日のよるべなさ

・もうながく病垂れなる内に棲むこころとおもひ人に告げざる
・〈とか〉〈とか〉と並ぶレポート指し示しとかとか国のものがたりする
・表札を出すのがめんだうくさくなりマジックで記す折れ釘の文字
・少しづつ減らしゆくべき投薬の量を説きつつやさしきこゑよ
・日日ちがふ知人友人出入りして松も飾らぬ松の内なる

・人生の挿話のやうな日が暮れてひとら帰りしのちの静寂
・ぼろぼろになるまで人は働くと職を変はりてのちまたおもふ
・意に染まぬとはいへど今日在らばまづ生きよ 身の内のこゑに従ふ
・相槌は打つものそれをせぬゆゑにいつも打たれてゐるわたし――釘
・透かし絵のやうな春の日暮るるまで気付かず不燃物回収日

・こころより外れし箍がかげろふのもえたつ坂をころがりゆけり
・錠剤の呑めない子にてありしかば叩いてつぶす空のみづいろ
・薬品のにおひの抜けぬ一室に語る人生の句跨がりあり
・プライベートな手紙なれどもその文字はやはり白衣を着けてゐること
・熱のある体をさまよひ出でしのちこころはいづこへ行きしや今宵

・夏空色の包装紙など求め来て包み込みたしかのこころさへ
・かささぎはむかしの鳥と書くからにものがたりせよ秋の一夜を
・懸命にこころの不穏訴ふるかの日に咲きてゐたりしれんげ
・病棟のいづこを巡り来しや汝が白衣の背中秋陽がにほふ
・名も知らぬ黄の花を指して笑む青年のやうな人なんですね

・錠剤を掌にかぞふれば兆しくる死の芯のやうなものあたたかし
・残し置くものに未練はあらざれどうすきガラスのこの醤油差し
・錠剤の切れゆくままにわたくしの夢も解かれてさむき朝なる
・内側に棲まふ人とは会はねどもドアにはドアの表情があり
・こころにもポケットがあるそのことを教へてくれたる白衣 夏の日

・しかたなく靴は脱ぐあとは洋服のままくづほれて眠りてしまふ
・〈閏〉とはあたたかな語彙されどきさらぎに別離のふみ書きしこと
・冬休み中なれど日日鶸色(ひはいろ)の空にながれてけだるいチャイム
・都市は大きなクリスマスツリー 上空に誰か置く準銀のジョウロを
・なう、鳩よ この街の人はみななぜか語尾のするどき言葉を話す

・捨ておかれ砂に光るはとおき世のしほみつのたましほひるのたま
・この世からさまよひ出でていかぬやうラジオをつけてねむる夜がある
・意外にも全きかたちをしてをれば掌にもてあます豆腐一丁
・炉端がたりの婆さんたちの愚痴に似た音たてて嚙むイカスミ煎餅
・相聞も挽歌も味がうすき夜はむかし話の漬物を喰ふ

・マンションは棺桶などと思ひつつ寝てしまふ時計のベルが鳴るまで
・こはれもののやうなと言はれほんたうにこはれてしまふこころにあれば
・異界より落ちくるしづく……点滴を見つむる外は花散らす雨
・通院のほかはなさねば新しい春のコートも着ずに過ぎにき
・春あはき日暮れのようなかなしみに目ざめぬ薬剤の効果も切れて

・タンポポはいづこにぞ咲くゆめのなかに体温計を置き忘れたる
・冷風が遠くから来る病院の待合室は墓地に似て 夏
・窓外も体内も雨ずぶずぶのおもひにふかく陥りゆけば
・人間のふしぎのひとつ無意識に痛き部分へ手を当つること
・人生の端数のやうに雪は湧きまた消ゆるしんと都市の上空

・さびしさはみづがねいろの雲となりながれてゆきぬこの世のほかへ
・ゆふぐれはサボテンと化すこころかな夕陽にトゲが突き刺さりゐる
・明日にはもう踏み出したくなし泥にまみれた両の靴を脱ぐとき
・あの世にて母が洗濯機をまはす音きこゆるよひとりベランダに立てば
・くつしたの形てぶくろの形みな洗はれてなほ人間くさし

・割り算のあまりのやうな時間さへをしむこころのその果ての果て
・冠のごとかがやく夏の雲高しがんばることをやめたる朝に
・うつろへる刻もいつしか忘れたり点滴はいま夕陽のしづく
・これのみは最期の手紙(ふみ)に貼らむうるはしき切手を残しおく宵
・こころを雲のごとく保てと言ふ時の横顔はまだ青年のかほ

・人生の版画凹凸なる版画刷り出だすべからず詩歌には
・銀色のすすきの穂波かきわけてゆくゆめ 人を呼ぶこゑはする
・目を閉ぢて今宵はひとり聞きゐたりこの世の外(ほか)に鳴る風鈴を
・天界にこころを病める少女ゐてあさしほゆふしほ汲みにけらずや
・ハーモニカ売られてをりぬ痩身に過ぎゆく夏の雲を映して

・「――とさ」昔ばなしのをはりにはあたたかき息ひとつを置ける
・ここに来て両の腕(かひな)に持ちきれぬほどには持つな想ひも花も
・錠剤を見つむる日暮れ ひろごれる湖(うみ)よこの世にあらぬみづうみ
・人間はギコギコギコギコ働いてふと消えてゆく霧のむかうへ
・透明になりて次第に消えゆけりどこにも居場所のないかたつむり

・ひとの死の後片付けをした部屋にホチキスの針などが残らむ
・病中の想ひにあればひつそりとこころの内を人歩ましむ
・この時刻はいつも点滴してゐたとハナミヅキ咲く歩道におもふ
・療養のをはりとなりぬ店頭に新たまねぎの並ぶ季節が
・少しづつ買ひととのへる調味料ふたたび生きてゆくため 春を

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