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聖書黙想 2025年3月31日

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私は、元々は人の言葉に左右されやすい人だった。内心では我が強いのに、人から批判されることに凄く弱かったというか。まぁそれで、人に何か言われるとその通りにして、上手くいかないと、ご厚意で「助言」をくださった人に責任を帰していた。こういう態度は一見、温和に見えるのかもしれないが、それではいけないんだという「主のお取り扱い」を、私は2017年8月に受けた。(少し回り道した上で、後述する。)     *   *   *<新共同訳 ローマの信徒への手紙14章22〜23節>あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、すべて罪なのです。     ↓   ↓   ↓二十歳でこの聖句を初読した時、ずいぶん厳しい聖句だなぁと思い、長年その気持ちは変わらなかった。だって、色んな迷いや困り事があるから、“飼い主”イエス様に従うようになったんじゃないの?みたいな。     *   *   *私は、診断されたことはないが、発達障害の傾向もあるように最近は感じている。私はいわゆる「空気の読めない」人で、何でも言語化しなければ気が済まないというか、言語化しないと自分でも問題点が分からない人だった。だから、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(新共同訳 ヨハネによる福音書1章3〜4節)、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(新共同訳 ヨハネによる福音書1章14節)というイエス様と御言葉を与えられたのは、本当に救いだった。物分かりが悪く、(何でこんなことが聖書に書いてあるのよ!)とか(何なのよこの世界の不条理は!)と神様に食ってかかっていった私に、主はとことん付き合ってくださった。     *   *   *<新改訳第三版 レビ記24章15〜16節>に「あなたはイスラエル人に告げて言え。自分の神をのろう者はだれでも、その罪の罰を受ける。主の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその者に石を投げて殺さなければならない。在留異国人でも、この国に生まれた者でも、御名を冒涜するなら、殺される。」とある。このレビ記を読めば、私は旧約の時代だったら確実に石打ちに遭うような者だったと判る。でもイエス様がこの世に来られて事態は変わった。<新共同訳 マタイによる福音書12章 31〜32節>に、「だから、言っておく。人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」とイエスが仰ったことが書かれている。イエス様にぶーぶー言っていた私が、それでも主に受け容れられていたのは、この御言葉ゆえなんだなぁ、と。     *   *   *さて、私が受けた「主のお取り扱い」の件を話す。私は人に何かを断ることが凄く苦手だった。だから、人が善意で何かに誘ってきたりした際に一応断っても、相手の他意のない「何で?」(という、うるうる目線)に耐えられず、自分の本当の気持ちを殺して、目の前の相手に従い、そっちを立てたために捻り潰した他の人の怒りに遭遇して、(だから従うの嫌だったんだよ!)と内心煮えくり返っていたりした。でも、今思えば、誠意をもって断れば良かったのに、コミュニケーションを取るしんどさ・億劫さを回避するために、何でも人のせいにして勝手に被害者意識に陥っていたんだな、と思う。2017年9月の作業所のバーベキューの翌々日に教会の食事当番が割り振られた私は、バーベキューに何としても参加させようとする職員さんに欠席の交渉をする勇気が無く、教会員複数に働きかけて、私の教会の食事当番日程を交替してもらうほうに動いた。しかし、私は替わっていただいたほうの日程(2017年8月20日)の前の金曜日に吐いてしまい、結局さらに他の教会員を拝み倒して、その日の食事当番を無理に代わっていただいた。私は、自分の都合で替わっていただいたお役目を体調不良のため果たせず、その後四ヶ月くらい教会で“針の筵”にいる羽目になった。【幾人を煩わせたか省みるほどに切なるカインの祈り】という拙歌は、2017年8月29日に詠んだ歌である。     *   *   *<新改訳第三版 テモテへの手紙 第一 5章24〜25節>ある人たちの罪は、それがさばきを受ける前から、だれの目にも明らかですが、ある人たちの罪は、あとで明らかになります。同じように、良い行ないは、だれの目にも明らかですが、そうでないばあいでも、いつまでも隠れたままでいることはありません。     ↓   ↓   ↓エンハラだの何だの、って最近は散々わめいているから、もうここではこれ以上書かないけどね……私は立ち回りが下手なので、強力バッシングにも遭いやすいけど、卒なく如何にも良いことのように圧力をかけてくる人もいるってことを、一応言っておきたいな。(少なくとも、ここは私のblogなんだから)

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