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Channel: 水の門
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一首鑑賞(86):松村由利子「取税人マタイ登りし木のように」

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取税人マタイ登りし木のように悲を抱きとる人となりたし
松村由利子『光のアラベスク』

 私が住んでいる市の市民生活課がゴミの処理などについての情報発信しているプリントが二枚、私の手許に取ってある。内の一枚は2020年8月発行の号で、プリントの裏面には【プラスチックごみの削減に向けて…「今日からはじめる10のこと」】というリストが掲載されている。なるほどなぁと思う項目もあるのだが、その中の「テイクアウトを減らし、お弁当を作る」の項に私はギョッとした。趣旨は分かる。使い捨てのお弁当箱がプラスチック製であることが多いから、無闇にテイクアウトを買ってプラスチックごみを増やさない方が良いということだろう。しかし、あまり親切な提案ではないなと思った。折も折、コロナ禍真っ只中に発行された号である。外食の自粛の呼びかけ、飲食店への時短営業あるいは営業停止要請などがされているさ中、テイクアウトに望みを繋いだ飲食店や居酒屋なども少なくなかった筈だ。
 まぁそれは一例なのだが、毎日の暮らしの中では色々判断に迷うシチュエーションも出てくる。あることは、Aという便利さ・利点などがあるが、一方でBという負の側面もある——ある行為を選び取ればそれに批判的な人からの風当たりもあるというのは、誰しもが日々経験していることではないだろうか。松村は、某新聞社の記者を務めていた。それゆえ、経済発展などあることを推進した結果としての〈負の遺産〉や、様々な価値観の人がすれ違う中で生まれる軋轢を熟知しており、そうした中でも生き抜いていかなければならないことへの無力感・寄る辺なさを描いて秀逸である。

  プラスチックだらけの日々は層を成しなだれ込むなり亀の胃壁へ
  深海に死の灰のごと降り続くプラスチックのマイクロ破片
  絶滅危惧種なること母に言いたれど鰻重届いてしまう帰省日
  プラスチックは象牙の代替品なりき罪の連鎖は果てなく続く

 私は、イエス様が地上に生きていらした頃はどのように過ごされていたのかなぁ、とふと考える。イエス様はいつも群衆から称賛されていたわけではない。批判・やっかみと隣り合わせであったことが、福音書を読んでいて分かる。書き始めると切りがないので、ここでは二つの出来事を引用するに留める。
     *   *   *
イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた人の何人かが、憤慨して互いに言った。 「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか。この香油は三百デナリオン以上に売って、貧しい人々に施すことができたのに。」そして、彼女を厳しくとがめた。イエスは言われた。 「するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではない。この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」 (マルコによる福音書14章3〜9節)
     *   *   *
イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。 「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」 (ルカによる福音書19章1〜10節)
     *   *   *
 掲出歌の「取税人マタイ」とは、マタイによる福音書9章9〜13節に登場する。イエスは、徴税人マタイが収税所に座っているのを見かけて声をかけ、マタイは主に従い弟子となる。前掲のルカによる福音書19章の徴税人ザアカイとは別人物のようであるが、境遇や周囲から受ける蔑みの目などにおいてザアカイとマタイには似通ったものがあったであろう。確かにベタニアの女(マルコによる福音書14章)の主に捧げた香油は贅沢品であったかもしれない。またザアカイ(ルカによる福音書19章)がイエスの前に公言した約束は、傍から見れば(また何でも金で解決しようとして……!)と見えたかもしれない。しかしイエスは二人を裁かなかった。
 コリントの信徒への手紙 二 9章7節に「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」という御言葉がある。イエスは細かい掟で人を雁字搦めにしない。マルコによる福音書12:29〜31にあるように、神である主を愛すること、隣人を自分のように愛すること以上の負担を与えないのである。生きづらいこの世で、負いやすい軛・軽い荷を与えてくれる主(マタイによる福音書11章28〜30節)を知らされていることは、私にとって最大の幸せである。
 松村自身が聖書に通暁しているのは歌集から読み取れるが、この世の理不尽な現実を前に信仰の道を選び取れてはいないようだ。それでも、取税人マタイが登った木のように、周囲からの偏見と非難の目に晒されて生きている人の「悲」を抱きとる人となりたいという松村の気持ちは、読み手の心にしんと沁み渡ってくる。

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